神学論争と統一原理の世界シリーズ15


第三章 罪について

5.この世に悪が生じた根本原因とは何か?

前節においては、神が人間に自由意志と責任分担を与えたがゆえに、神が創造した世界に悪が生じたということについて説明した。しかし、それは悪が生じるための必要条件として人間に自由意志と責任分担がなければならないということを説明したのに過ぎないのであって、そのこと自体はキリスト教の一般的な見解と相違はない。しかし「統一原理」のユニークな点は、人間を堕落させた決定的な要因が「自由」ではなくて「愛」にあったと述べているところにある。このことは前節では説明することができなかったので、この節において掘り下げて説明してみたいと思う。

 

堕落の根本原因は「愛」であった

この問題は、『原理講論』では「堕落論」の第参節「愛の力と原理の力および信仰のための戒め」と、第五節「自由と堕落」において扱われている。ここで述べられている「原理の力」とか「自由」という概念は、基本的に人間が正常な成長過程を経て、個人として成熟して行こうとする欲求のことを指しており、その目標は「個性完成」と呼ばれている。もしこの成長の軌道にそって働く力だけが作用していたならば、人間が堕落することはなかった。しかしそれ以外の力、すなわち「非原理的な愛の力」が作用したために、人間は軌道を逸脱して堕落してしまったのだ、と『原理講論』は説いている。そしてたとえ非原理的なものであっても、愛の力はあらゆる力に勝るものであったので、原理の力や自由意志にも打ち勝って人間を堕落せしめたというのである。

それでは愛そのものがいけないのかといえば、そうではない。愛の関係を結ぶ「時期」と「方法」と「動機」を誤ったというのが、「統一原理」のポイントである。愛における「時期」と「方法」と「動機」は、互いに密接な関係にある。なぜなら人間の成長の過程に応じて愛の動機が成長し、それぞれの時期にふさわしい愛の表し方があるからだ。この秩序を破壊して愛を歪めてしまったのが、まさしく堕落であった。したがって愛は正しく用いれば人間に最高の幸福をもたらす偉大な力となるが、誤って用いれば人間を地獄の底に突き落とすような破壊的な力となるのである。

 

愛と自由の緊張関係

このことを現実に即した問題として理解するためには、心理学的な概念を用いて説明するのが一番イメージしやすいと思われる。中でもエーリッヒ・フロム(1900~1980年)の「愛するということ(The Art of Loving)」は、人間の成長と愛という問題に正面から取り組んだ著作であるので、彼の議論を参考にしながら「統一原理」の堕落論がいわんとするところを説明してみようと思う。

エーリッヒ・フロム

エーリッヒ・フロム

フロムの著書『愛するということ』

フロムの著書『愛するということ』

 

自由とは他者から束縛されていない状態を指し、人間の独立性・自律性の根拠となる概念である。他者から強力に拘束されている人間は、自己を十分に表現できず、個性の発達は抑圧される。したがって自由というものは、「自己実現」の欲求と密接に関係していることが分かるであろう。「統一原理」が「本心の自由」を個性完成を志向するものしてとらえる理由も、まさにここにある。しかし、自由の状態は拘束されていない状態であるが故に、「分離された状態」であるという「不安」や「孤独」を必然的に伴う。これは人間を「他者との融合」という、全く正反対の欲求へと駆り立てる。

この「他者との融合」を求める人間の基本的な欲求がすなわち「愛」であり、これは恐らくは人間における最も強力な欲求であろう。人間は愛なしには一日も存在しえないといっていいほどである。愛は人間の不安や孤独を癒やし、心を幸福で満たす力を持っている。しかし愛は良きにつけ悪しきにつけ、人間を拘束するものである。お互いが自発性に基づいて愛し合っているときは、その拘束はむしろ快感でさえあるが、それが失われると愛は「しがらみ」に変わる。このしがらみが過度になると、人間は「自由」という正反対の欲求へと駆り立てられるようになるのである。

このように愛と自由は、弁証法的な緊張関係にあることが分かるであろう。しかし愛と自由の関係は、本来決してネガティブで対立的なものではなく、お互いの価値を高め合うような関係にあった。それは義務づけられた機械仕掛けの愛情ではなくて、自由な心が自発的に愛するからこそ愛が刺激的なものとなることからも分かる。したがって「統一原理」は人間が完全に自己を実現した状態、すなわち「個性完成」の状態においては、愛と自由がお互いのネガティブな側面を克服して止揚統一され、「真の自由」と「真の愛」が同時に存在する境地に到達したと考えている。だが、それには人間の個性が十分に成熟するのを待ってから、愛の関係を結ぶ必要があった。しかしそれ以前に、堕落による不自然な愛のしがらみによって自由が拘束されてしまうことにより、真の自由と真の愛の両方が失われてしまった、と「統一原理」は説くのである。

真の愛と偽りの愛

E・フロムは、未成熟な形の愛を「共棲的合一」と呼んで、本当の意味での愛と分けている。それは未熟な個人が「孤立」と「分離」という耐え難い感情から逃れるために、他者に依存して生きることをいう。その極端な例はマゾヒズムとサディズムである。マゾヒズム的な人は、不安から逃れ責任を回避するために、自分自身を権力の一部に同化させる。それによって彼は孤独を感じなくなるかも知れないが、「本来の自己」や「自由」は放棄され、彼は強烈な拘束のもとで生きることになる。逆にサディズム的な人は、孤独の感覚から逃れるために他人を自分の一部とし、支配下に置こうとする。しかし自分にかしずく人々の存在によってしか不安を克服できないという点において、やはり彼は他者に大きく依存して生きていることになる。この二つの極端な例が示すような、依存性の強い未成熟な精神が結ぼうとする歪んだ形の愛を、「統一原理」は「非原理的な愛」とか「偽りの愛」と呼んでいる。

【図7】

【図7】

一方フロムが「成熟した愛」と呼ぶものは、本来の全体性と個性を持ったままの状態での合一であり、自分自身を与えようとする活動的な力であるとされる。このような愛は彼をして孤立と分離の感覚を克服せしめるが、それと同時に彼自身のアイデンティティーをも保つものであるという。このような愛の能力を有するためには、依存性、他を搾取しようとする欲望、あるいはナルチシズム(自惚れ)などの、未熟な精神性を克服しなければならない。したがって彼がいう「成熟した愛」とは、「統一原理」でいえば人間が個性完成した後に発揮することができる、「原理的な愛」とか「真の愛」と呼ばれているものに近いことが分かる。そして愛が真実となるためには、まず個人としての成長が先決だと言っている点においても、両者は一致しているのである。

 

しかし人間は、将来における真実の愛を目指して自己を磨くよりも、目の前に転がっている偽りの愛の甘美な誘惑にはまりやすい。そしてつかの間の融合の錯覚に浸って孤独を癒すために、「本来の自己」と「自由」を放棄してしまうのである。孤独に耐え難い未熟な精神であればあるほど、しばしば「恋に陥る」と表現されるような爆発的な経験を求め、性的な結合によって分離を癒そうとする。性的な引力は瞬間的には融合の錯覚を作るけれども、本当の愛を伴わないこの融合は、錯覚が過ぎれば以前にも増して互いに疎遠な関係にあるお互いの姿をさらけ出させるだけである。したがって未熟な段階における性交渉は、人間の心を荒廃させ、人格の成長を妨げるのである。まさしくこれがエデンの園で起こった堕落の出来事の核心であった。人間は歪んだ愛の力の虜になることによって、本来の自己と自由を奪われてしまったのである。

このように統一原理の堕落論は、単に原罪が愛と性の問題であったということを述べているのではなく、人間の精神的成長と男女の愛の問題についての心理学的な洞察に富み、我々の内面世界の深層をえぐる内容を持っている画期的な神学なのである。

 

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