シリーズ「人類はどのようにして信教の自由を勝ち取ったか?」第7回


日本の場合
現在日本においては、「日本国憲法」によって基本的人権としての個人の信教の自由が保障され、国家と宗教がそれぞれ独自の領域を侵さないという分離型の政教関係が明示されている。そして同様のことが「宗教法人法」においても基本原則として明示されており、国は宗教に保護をあてることも、その内容に干渉することも禁じられている。しかしわが国がこの様な「信教の自由」と「政教分離」を本当の意味で享受するようになってから、まだ60年ほどしか経っていない。

切支丹を禁じた江戸時代の高札

切支丹を禁じた江戸時代の高札

徳川時代には、幕府は鎖国、キリシタン禁制、および檀家寺請制度によって国の秩序を維持していた。これはすべての国民が自らがキシリタンでないことを証明するために必ず一寺院の檀家となり、仏式の葬儀を行う事を義務づけるという、いわば仏教国教制であり、徳川幕府の国家統治と仏教の寺院組織が共生関係を保っていた。それは、国家ないしは政治が仏教という宗教を制度的に利用する仕組みであった。

徳川幕藩体制を倒して明治維新を実現し、わが国に近代化をもたらした明治新政府の主たる願望は、西欧諸国との間に結んだ不平等条約の改訂を説得する事であった。1858年に大老井伊直弼が独断によって調印した日米通商条約に引き続く五ヶ国通商条約は、1894年までの日本と西洋との関係を規定していた。この不平等条約によって、日本は外国人の裁判権と関税自主権という二つの国家の基本権を奪われていた。それ故に明治政府の指導者たちは、開国以来国家が直面していた不利な立場を克服するために、やっきなって西洋の文化と技術を輸入しようとした。彼らは実にほとんど全ての分野において、西洋の文明を導入したのである。

明治政府から不平等条約の改訂を託された外交使節は、行った先々で「日本は信教の自由を認めていないので非文明国であるとしか認めざるを得ない」という非難を耳にした。西洋の諸国は、この理由をもって条約の改訂を拒否して来たのである。この様な西洋諸国の一致した圧力に説得されて、明治政府は1873年に基督教禁止令を撤廃したのである。さらに1889年に発布された憲法に、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ゲズ・及臣民タル義務ニ背カザル限リニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」(第28条)とうたわれることにより、信教の自由が保障される事となった。

しかしながら、表面的には西洋から多くのものを取り入れながらも、日本の政治的、社会的組織の構造とそのイデオロギーとは実質的には保存されていた。明治政府の目的は、神道を国家宗教として復興させ、古代の祭政一致の原理を復活させることであった。明治憲法の主要な草案者である伊藤博文は、日本にはヨーロッパにおけるキリスト教の様な強力な宗教が存在しないので、皇室が国民の精神的統合の核となるべきであると主張した。政府は仏教と混合状態にあった神道をそこから引き離し、神道を新しい日本を統治するための精神的支柱とすべく、神祗官を設立した。

明治憲法において信教の自由は文字の上では保証されていたが、それは「安寧秩序ヲ妨ゲズ・及臣民タル義務ニ背カザル限リニ於テ」という限定付きであった。信教の自由の意味は、1890年に教育勅語が発布された後にはより狭い意味で解釈されるようになった。勅語に表明された公式の「国体」観念は、日本は神聖なる国家であり、天皇は全ての臣民が無条件で追従すべき現人神であるという思想であった。そしてこの様な国家の教化政策に逆らうようなイデオロギーは、すべて不信の目をもってみられ、政府の公的機関によって終始攻撃されるようになったのである。

「不敬事件」を起こした内村鑑三

「不敬事件」を起こした内村鑑三

明治期の代表的なキリスト教徒である内村鑑三を巻き込んだいわゆる「不敬事件」は、1891年に彼が教育勅語に記された天皇の宸署の前で敬礼を拒んだことによって引き起こされた。実際、内村には明治天皇を冒涜するつもりなどなかった。彼はただキリスト者としての良心から、神以外のものに対して崇敬を払うのを躊躇しただけである。しかしこの事件はキリスト教徒の忠誠に関する国家的次元の論争にまで発展し、内村は東京の第一高等中学校の教師としての職を退かざるを得なくなった。

1931年に満州事変が勃発し、日本が本格的に軍国主義への道を歩み始めると、宗教諸派に対する政府の統制は、漸次あらゆる団体に及び、1939年の「宗教団体法」によって、それは絶対的なものとなった。この法律は宗教団体に対する強力な官僚的支配を目的としたものであった。すなわち、文部大臣ならびに知事や地方官吏は、すべての宗教団体の組織、職員、行動、教説といったすべての事柄において、監督上の責任を行使する権限を与えられたのである。

戦時下の大本教弾圧を描いた著作「大本襲撃」

戦時下の大本教弾圧を描いた著作「大本襲撃」

戦前の行政は、諸宗教を三種類に区分していた。すなわち、天皇制の基盤となる神道は、一般の宗教とは区別される国家の祭祀であり、神社は国の営造物法人とされていた。国家が公認する宗教は、教派神道13派、仏教53派、キリスト教2団体に限られていた。その他の宗教は、類似宗教団体として警察の監視下におかれ、大本教、天理教、ほんみちなどの新宗教がしばしば弾圧されたほか、敵国の宗教と考えられていたキリスト教も厳しく監視された。

太平洋戦争の勃発と共に、諸宗教団体は日本の最終的勝利を達成するために、国家に協力することを要請された。戦争中は、全ての宗教的グループが思想的な武器として政府に利用された。宗教団体のメンバーは、愛国的行為を実行するために地方また国家的レベルで愛国諸団体に組織されていった。

しかし、第二次世界大戦の終結と連合国の日本占領により、全面的な信教の自由が日本にもたらされるようになった。悪名高い「宗教団体法」の廃止は、日本の宗教界に根本的な変化をもたらした。信教の自由と、宗教と国家の分離を保証され、全ての宗教団体は精力的な活動を開始した。そうした戦後の状況の中で、いわゆる「神々のラッシュアワー」という新宗教ブームが起こり、これが今日の日本の宗教事情を形作ったと言っても過言ではない。

このように、わが国では明治憲法に信教の自由の保障が定められていたにもかかわらず、神道と国家が結びついていたため、国体の思想に反するとみなされた多くの宗教が弾圧され、国民の思想の自由も侵害された。これでは信教の自由も国民の精神的自由も実現することができないので、現行憲法は国家と宗教を分離する政教分離の原則を採用したのである。(憲法第20条、第89条)

 

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