アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳28


第3章  統一教会の信条(5)

横的な差異

統一教会のすべてのメンバーが『原理講論』の主要な教義を知って信じているが、統一教会の信条や実践についての彼らの知識は、決して一様でないということが強調されるべきである。もちろん、個々人がそのような事柄について違った種類および程度の関心をもっていることに起因する理解の違いというものがあるが、より直接的に社会的状況に関わっている可能性のある相違もある。このような知識の構造的な違いは、横的・縦的双方の差異として存在している(注24)。横的差異は、しばしばメンバーが初めて運動に紹介されたセンターにその原因を帰すことができる。それらは知識の深さや質における差異ではなく、解釈や強調の違いである。

初期の宣教師たちがそれぞれ自分自身の原理解釈を持ち込んで教えたということは既に述べた。異なる宣教師たちによって改宗された人々によって、こうした差異が持続され、永続されただけでなく、原理への新しい「道筋」もまた、個々の講師によって、そしてより正式には、新しい翻訳やスタディ・ガイドによって考案されてきた。一つの特筆すべきイノベーションは、イスラム教の観点から原理を表現した本の出版である(注25)。この本においては、主としてユダヤ・キリスト教徒である西洋の人々に原理を紹介するために役立ってきた新・旧約聖書からの引用の多くが、コーランからの引用に差し替えられている。イスラム教の役割が特別な章で論じられており、キリスト論はさほど重要な役割をしていないが、基本的教義はそのままである。

違った種類の横的な違いは、『原理講論』を文字通りの真理として受け入れている統一教会の根本主義者と、最も重要な点はそれが人間の状況を説明するうえで最も有益な神話を提供していることだと信じている人々との間にも観察することができる。この後者のグループの大部分は、堕落に関するの統一教会の説明は歴史的事実であるという可能性を受け入れるけれども、それがその物語の本当の核心だとは考えていない。その基本的真理は、世界が直面している混乱の原因が愛の誤用であるという認識にある。勧誘に関して言えば、そのような相違があることにより、運動の中に自分の関心を引き付ける何かを見つけるかもしれない入会候補者をより多くプールすることができる。あるメンバーは、信条の中に見いだされる横的差異についての私の見解に、次のような言葉で答えた。

「最終的にそれは同じものに煮詰まるのだ。それはコミュニケーションや言語、つまり異文化や異なる背景に到達する方法の問題だ。整然とした神学は、ある人々にとっては容易に理解できないが、一方で、それは他の人々とは密接に関わっており、教条的に受け入れられている。異なる文化が出会うとき、啓示の最大限の価値が引き出されるのだ。その狭さを無効にすることなしに、「神学的な人々」が見るよりもっと多くのことを示しながら、自由なものの見方を異端視することなしに、自由主義者が可能であると思ったものよりもさらに多くの本質を実際の出来事において見せながら。我々は正に文化を融合させているのだ!」

より神学的に自由なアプローチは、最初にオークランド・ファミリーを通して運動に入会した人々の多くに特徴的である。第2章に示唆されているように、オークランド・ファミリーは1970年代後半において、西洋で新会員を入会させる中心的なセンターになった。アメリカの他の大部分のセンターや、ヨーロッパのセンターと違って、モーゼ・ダーストとオンニ・ダーストの指導下にあったこの運動の支部は、『原理講論』の「正統」版を使うのでもなく(注26)、週末の入門セミナーのためのスタディ・ガイドを使うのでもなく(注27)、独自の原理解釈を教えた。それは、初めて聞いたり読んだりする(注28)と、より正統的なテキストとは明らかに異なっているように見える。正統的なテキストにしばしば見られる、韓国語から翻訳された重々しい聖書的な概念や言語の代わりに、入会する可能性のある人々は「心理学的洞察に満ちた」「社会性のある」「霊的に意味深い」(そして冗談好きな)概念や、カリフォルニアの言葉を聞かされた。それはおそらくカリフォルニアの信仰復興運動の集会で用いられるような言葉である。講話のスタイルやレトリックがあまりに様変わりしているので、それは初めの段階では、ニュージャージーやマンチェスターやオルソーで教えられたものと同じメッセージだということを認識するのが難しいほどである。しかしながら、人はそのメッセージを認識することが「でき」、これら二通りのプレゼンテーションは、疑いなく個々の人間の理解の「情報センター」の内部でしばしば交換可能になるのである。しかし同時に、異なるプレゼンテーションは異なるタイプの人々にアピールしただけでなく、運動の信条の異なる解釈を生み出し、異なる種類の観点や異なる種類の行動を導くようになった。そしてそれは、メンバーやその家族、そして運動全体に異なる種類の結果をもたらしたのである。

『原理講論』を概説したすぐ後に、一人の「ゲスト」がブーンビルやキャンプKでの週末修練会や「セミナー」で聞くであろう講義の内容を簡単に紹介すると、繰り返しになる危険性がある。しかしながら私の目的は、二つの内容の間にある類似点と相違点の双方を描写することと、自分自身や世界の問題について理解するうえで、(神学的というよりむしろ)社会的あるいは心理学的説明をより受け入れやすい人々に対して、オークランド版がアピールするかもしれない方法のいくつかを示唆することにある。そして、統一教会の信条のより正統的説明に関しては、私は、ムーニーたちが実際に送るような生活を送ることが、(統一教会の視点から)どのように「意味を成す」ようになり得るのか、そして、運動自体が組織として、どのようにある範囲までその価値体系の土台に基づいているのかを示すための準備をすることができればと思う。

オークランドでは、原理の三つの基本テーマが、入会する可能性のある人々に提示される。すなわち、被造物の本性、この本性から人間が逸脱したこと、そして復帰の課題である。最初に受講者が告げられるのは、もし我々が何が間違いであるかを認識して、それを正そうとするのであれば、世界はどのようであるべきかを知らなければならない、ということである。創造に関する話は、合法性、エネルギー、愛、美の原理について説明する。科学と哲学と宗教の融合、そしてより直接的に、「我々すべてが本当に知っていること」や「我々すべてが本当に望むこと」に訴えることにより、存在の「自然な」、正しい、真の姿を描写するよう導く。それは基本的に、お互い同士や神との関係の中に真実と喜びと愛がある状態なのである。しかし、もし我々が現実の人間の生を見ればすぐに不自然な何かが存在しているのが見える、とゲストは告げられる。愛と喜びではなく、我々は残虐さと不幸を見いだす。希望と信頼と誠実さではなく、我々は絶望と疑いと裏切りを見いだす。犯罪の三大起源は、善のための主要な三つの力を逆転させることだということが分かる。貪欲とは自己中心的願望である。放縦とは法に従わない自由を行使することだ。肉欲とは自己中心的な愛の誤用である。我々の愛や我々の自然な自己が、このように自己中心的に間違った方向に向かっているのは、我々がそれを両親から学び、受け継いだからであり、そして両親もまたその親からそれを受け継いだのである。腐敗した貪欲な制度を持つ社会環境は、合法的で道徳的な原理に導かれていない、私たちの偽りの愛と自己中心的な放縦の反映なのである。

私たちの唯一の希望は心を開いて自分自身を再創造することだけだ、とゲストは告げられる。私たちはまず自分自身から始めなければならず、その後に他者との関係を変えることができる。自分自身のろうそくに灯をともすことによって、私たちは周囲のすべてを照らすことができる。そして、最終的に世界全体が変わるだろう。しかし、もし私たちが独りで、どの道に進むべきかを知らなければ、いかにしてよき夫となり妻となるのか、あるいはいかにして人々が互いに尊敬し、愛し合う環境をつくり出すのかを学ぶことはできない。私たちには導いてくれる理想と価値体系が必要であり、道を示して模範となってくれる指導者たちが必要だ。そして指導者たちはその理想を実現するために追随者が必要である。理想は実践的な知恵のビジョンへと翻訳されなければならない。私たちはいかなる状況に置かれようとも、チャンスのすべてを最大限に活用しなければならない。我々がより高い基準や価値のための何らかの小善を無視するとき、それに反対するのは狭量な意識だけでだろう。それは例えば、誰かを火事から救うために隣人のために集めておいた食料雑貨類を捨てなければならないときと同じである。さらに、目的はこの世界に天国をもたらすことであるから、私たちはこの世界にある資産を用いなければならない。例えば富は、世界をその本来の状態に実体的に復帰する過程において、善なる目的のために使われるべきである。

(注24)もちろんこれらの言葉は、本書の序文で使ったときとはかなり違った用法で使われている。序文では、私は研究の中で統合しようとしていた知識を記述していた。
(注25)世界基督教統一神霊協会『統一原理紹介:イスラム教的視点』ニューヨーク、世界基督教統一神霊協会、1980年。
(注26)劉『原理講論』。
(注27)金栄輝『統一原理』、郭『概説統一原理』。
(注28)例えば、モーゼ・ダースト『象の全体像』、『被造物』、『人類の目的』、『罪の起源』バークレー、カリフォルニア州、新しい教育開発システムの創造的共同体プロジェクト、日付未詳。

 

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