シリーズ「人類はどのようにして信教の自由を勝ち取ったか?」第3回


ルターの宗教改革
前回は、人権思想のルーツが「万人祭司」を説いたルターの宗教改革(1517年)にあり、万民が神の前に平等であり、誰もが良心を通して神の声を聞くことができるという宗教改革の根本原理こそが、まさに近代民主主義の精神的出発点であったことを説明した。

しかしながら、「宗教改革」によってただちに「基本的人権」「民主主義」「信教の自由」といった概念が確立され、それが社会に定着するようになったかと言えば、それはまったくの間違いである。少なくともルターやカルビンは現在の意味での「信教の自由」などという概念は知らなかったし、彼らの生きた時代にもそのような社会は存在しなかった。近代民主主義の源流となる思想を説いたクロムウェルも、実際に行った政治は極めて独裁的であった。彼らはあくまで後にそのような価値観として結実する思想の「萌芽」を提供したにすぎない。近代以前のキリスト教社会には、信教の自由は存在しなかった。人々は自ら信じる内容を「国家」と「教会」という二つの勢力によって一方的に決められていたのである。

歴史的にみれば、宗教と国家というものは本質的に相性の良いものであった。これは宗教には自らの理想を実現するために国家のもつ強制権を利用しようとする傾向があり、一方国家の側にもその支配権を安定させるために、宗教の力を利用して国民の忠誠心を獲得したいという願望があるためである。近代以前の社会においては、中世のヨーロッパを典型として、通常政権と教権が共生関係にあった。そこにおいては宗教は公的な次元で定義され、社会の統合に役立つものとして認識されていた。

しかし特定の宗教と国家が結びつけば、当然その宗教が他の宗教より優位に立ち、他の宗教は異端審問や破門といった様々な方法で圧迫されることになる。これによって生じた軋轢は、宗教同士が神を掲げて戦う悲惨な宗教戦争へと発展した。そこで人類は近代になって「信教の自由」を確立し、市民一人一人の義務と責任において信仰を選択するよう、各自に判断を委ねるようになったのである。

「信教の自由」は、近代社会における市民的自由権の先駆となったものであり、人権の筆頭項目として、民主国家の根本的価値となっている。これは西洋キリスト教社会における長い宗教闘争の結果として勝ちとられたものであるが、実際にはそれだけの自覚のない社会にも、この原則は法制度とともに普及していった。この「信教の自由」と切っても切れない関係にある「政教分離」という原則も、やはりその理念の背景にはキリスト教文化の発想があり、宗教的・文化的伝統を異にする日本において本当にその価値が理解され定着しているかどうかは、はなはだ疑問のあるところである。

今日世界中の多くの国によって支持されている「信教の自由」と「政教分離」は、ヨーロッパにおける中世的国家体制に対するアンチテーゼとして誕生した。政治・経済・学問など、さまざまな分野の社会活動を教会の支配から解放し、宗教的に中立な社会を現実せしめたのは、主として啓蒙思想の働きによるところが大きい。啓蒙思想の信奉者たちは、専制的な政治権力および宗教権力に対して、自由と民主主義の確立のための長い闘争を繰りひろげてきた。そしてこれによって人権という思想が確立されたことは歴史的な事実である。

しかしながら「信教の自由」という思想の萌芽は、前述したように、すでにルターの宗教改革のときに出現していた。ルターの「万人司祭」「信仰義認」という思想は、それまでサクラメントの執行権によって救いの権能を独占してきた教会組織と司祭階級の支配から、人々の信仰を解放しようとした。ルターは我と神との間にいかなる媒介も置くことなく、一人一人が直接神を求めよ、そして上からの権威によってではなく、自らの良心によって善悪を判断せよと言ったのである。

この様な「信仰の自発性」は、ほとんど人間の本性とも言えるもので、実は宗教の歴史と同じ古さを持つとも言える。古くは旧約聖書の預言者達がその体現者であったし、教会が全てを支配していた中世ヨーロッパにおいても、清貧を説きながら司祭階級の腐敗堕落を批判するワルドー派やカタリ派などの異端が出現した。ルターの思想的背景となったドイツの神秘主義者達は、しばしば自らの宗教体験を根拠として教権と対立したし、ウィクリフやフスなどもルターとほとんど変わらない主張をしていた。

しかしこれらの人々はことごとく教権によって迫害され、破門されたり暴力的に排除されるという運命をたどった。ルターの宗教改革は、カトリック教会の権威に対する反逆がある一定の社会的成功をおさめた初めてのケースだったという点において、歴史的意味を持つのである。

しかし現実には当時の社会情勢では、本当の意味での信教の自由を確立することは不可能であった。ルターの宗教改革は、カトリック教会に反感を持つ諸候達の庇護によってはじめて成功したのであり、ルター派の信仰はその諸候によって全ての臣民に強要され、その領地内で他の信仰を持つことは許されなかった。カトリックとプロテスタントの抗争の末に、妥協案として締結された「アウグスブルグの和議」の原則は、Cuius regio, eius religio と云って、「君主の信ずる宗教が、その領内を支配する宗教となる」というもので、一般市民の信教の自由は認められていなかった。この状況は、1648年のウェストファリア条約の時にも引き続いていた。

アウクスブルクの和議(1555年)

アウクスブルクの和議(1555年)

それはツウィングリやカルビンなどの運動が成功した地域においても同様であり、その結果として「再洗礼派」など、より急進的な信教の自由と政教分離を主張するセクトは、当時の社会からは危険視され、多くの殉教者を出したのである。彼らの主張のほとんどは後の時代になって初めてその正当性を認められるに至った。

このように「信教の自由」と「政教分離」は、宗教改革以後の西欧キリスト教国家において、多くの信仰者たちの血の犠牲の上に初めて確立された、貴重な人類の叡知であることを我々はまず知らなければならないであろう。

16世紀にオランダで行われた再洗礼派の処刑

16世紀にオランダで行われた再洗礼派の処刑

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