シリーズ「人類はどのようにして信教の自由を勝ち取ったか?」第4回


フランスの宗教改革

ジャン・カルヴァン

ジャン・カルヴァン

ヨーロッパにおける宗教改革はドイツにおいてルターによって始められ、カルビンによってスイス、フランスへと拡大された。カルビン自身はフランス人であったが、フランスにおいてプロテスタントは厳しい禁制にあったため、カルビンはジュネーブに逃れ、そこを起点としながら、半ば独立状態にあった近隣のスイスの都市で次々と宗教改革運動を展開した。スイスに留まりながらも、母国フランスに自らが信ずるところの福音を伝えることは、カルビンにとって生涯の願いであった。カルビンがジュネーブに設立した神学校からは、多くの宣教師がフランスに送り込まれた。

カルヴァンの拠点となったジュネーヴのサン・ピエール大聖堂(2010年に後藤徹氏と訪問)

カルヴァンの拠点となったジュネーヴのサン・ピエール大聖堂(2010年に後藤徹氏と訪問)

フランスのプロテスタント信者は「ユグノー」と呼ばれ、カトリックを支持する国王に対して反感を抱く諸候達の間にしだいに広まっていき、これは次第に宗教的・政治的な対立へと発展していった。時の国王シャルル9世はわずか10才という若さであったため、対立の激化による内戦を恐れた国王の母カトリーヌ・ド・メディシスは、ユグノーにも礼拝の自由を保障するため、1561年にポワッシー会議を召集した。そして翌年出された勅令によって、ユグノーたちは屋内における個人的な礼拝と、街の城壁の外に限っては公的集会による礼拝も許可されることとなった。

しかしその年の3月、熱烈なカトリックの信奉者であるギーズ公が軍隊を引き連れて移動している際に、街の城壁内において集会を行っている約千名のユグノーを発見するや、武力を用いて彼らを一掃し、多くの死者を出すという事件が起こった。この事件は結局カトリック対ユグノーの30年戦争(1562〜89年)へと発展した。

ユグノー戦争の過程で起きた「サン・バルテルミの虐殺」(1572年)

ユグノー戦争の過程で起きた「サン・バルテルミの虐殺」(1572年)

シャルル9世の死後、本来ならば王位継承権は親戚にあたるナヴァルのアンリにあったが、彼はユグノーであったためにカトリック教会は彼の王位継承を認めず、アンリ3世を立てて対抗したため、第8次ユグノー戦争(1585〜89年)が起きた。この戦争の末期、1588年にはカトリーヌ・ド・メディシスとギーズ公というカトリック側の主要人物が死亡し、1589年にはアンリ3世が殺害されたため、ナヴァルのアンリがアンリ4世となってユグノーとしては初めてのフランス国王に即位した。

ところがカトリックを熱烈に信奉していたスペインはこの即位を認めず、事態は国際紛争へと発展した。そしてまだ国内にカトリック勢力が根強く残っていたフランスにおいて、アンリ4世は結局プロテスタントを国教として国を統治することを断念せざるをえなかった。そこで彼は国の平和の為にしかたなく自らカトリックに改宗し、カトリックを国教としながらユグノーには完全な礼拝の自由を保障するという「ナントの勅令」(1595年)を出すことによって事態を収拾したのである。

こうしてヨーロッパの歴史上初めて「宗教的寛容」を認めた勅令が出され、ユグノーの教会は急速に成長して行った。しかしこの「信教の自由」はわずか百年もたたないうちに否定されてしまった。絶対王権を主張する国王ルイ16世によって1685年にナントの勅令が撤回されると、再びユグノーに対する激しい迫害が始まり、それはフランス革命の前夜まで続いた。この中で多くのユグノー達はフランスを離れ、イギリス、オランダ、アメリカなどへと避難して行った。

このことがフランスの宗教事情に与えた影響は破壊的であった。イギリスにおいてはメゾジストやクウェーカーなどの敬虔主義運動が起こることによって、人々はその宗教的感情を発露する対象を多様に求めることが出来たが、フランスでは宗教といえば教条主義的で抑圧的なカトリックしかなくなってしまったのである。このカトリック教会はルイ16世の絶対王権と結びついて圧倒的な支配力を保持し、それに対抗する勢力といえば、ヴォルテールを中心とする無神論的な啓蒙思想家たちだけであった。腐敗した王権と教会に反感を持つ人々は、次第に啓蒙思想に心を魅かれて行くようになった。このようにして啓蒙思想を信奉するようになったブルジョワジーが、王権と教会が密着した旧体制を打倒したのが、フランス革命であった。

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