アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳23


第2章 統一教会:その歴史的背景(10)

1975年には、世界の他の地域まで宣教活動が拡大された。アメリカ人、日本人、ヨーロッパ人宣教師のチームがメッセージを広めるために派遣された。文は講演旅行を続けた。1975年6月7日、ソウルで開催された「救国世界大会」で彼は(報告によれば)百万人以上の群衆に講演した(注178)。アメリカ独立二百年祭の年である1976年に、特別な「ゴッド・ブレス・アメリカ」委員会が統一教会によって設立された。二つの大規模な大会が計画された。一つ目はニューヨークのヤンキー・スタジアムで6月1日に開催され(注179)、二つ目はワシントン・モニュメントで9月18日に開催された。ヤンキー・スタジアム大会の日は、季節外れの雨が激しく降った。そのイベントを成功と見るか失敗と見るかは、認識の主体によって大きく異なった。教会のスポークスマンによれば:
「4万5千人の人々が雨と風と寒さをものともしないでフェスティバルを支持し、あり得ないと思えることだが、フェスティバルの創設者・文鮮明師の講演を聴いたのである。来た人々は落胆しなかった。文師のメッセージは、深遠にして壮大であり、預言者の領域にあった。」(注180)

『タイム・マガジン』は別の話を伝えた。
「・・・5万4千席のスタジアムは、およそ半分しか満たされなかった。やって来た人々の多くは、粗野でしわがれ声の韓国語で発せられ、段落ごとに英訳される文の一時間にわたる大演説が終わるよりずっと前に立ち去った。スタジアムの外では、50団体もの文の反対者が列を成して行進し、『利益のための預言者』『奴隷労働を許すな』といった看板の柵を巡らした。」(注181)

ワシントン・モニュメント大会は大規模な「40日」準備キャンペーンを伴い、全世界から来た数百人のムーニーがワシントンDCの文字どおり一軒一軒を訪ねて招待し、周りの州からはバスいっぱいの乗客がワシントンに連れてこられた。今回は推定30万人の聴衆が集まった。文は、ワシントン・モニュメント大会をもって公衆の前で講演するのを終わりにすると宣言した。しかしながら彼は、そのとき以来いくつかの公的講演を行い、1983年12月には韓国の道庁所在地を巡回する10カ都市講演旅行を始め、推定25万人の聴衆に講演した(注182)。最近では、アメリカでの伝道がますます強調されてきており、ヨーロッパと日本のメンバーが合衆国全土を巡回している50チームのIOWC機動隊に加わって、講義を行ったり、新しいメンバーを入会させようとしたり、もちろんファンドレイジングを行ったりしている。CARPチームもまた多くのキャンパスで活発であり続けている。

しかし、コミュニケーションに対する教会の関心は、話し言葉に制限されてはいなかった。それ(あるいは、より正確には、文によって設立されたニューズ・ワールド・コミュニケーションズ社のような組織)は、多様な出版物に数百万ドルを投資してきた。1975年1月に、運動はその最初の日刊紙「世界日報」を日本で創刊した。2年後にもう一つの日刊紙「ニューズ・ワールド」(後に「ニューヨーク・トリビューン」と改名されることになる)(注183)が、ニューヨークの街頭に現れた。これにスペイン語の日刊紙「ノティシアス・デル・ムンド」(注184)が、ニューヨークのヒスパニック系コミュニティーのために加えられた。1982年に「ワシントン・タイムズ」(注185)が創刊され、翌年には「中東タイムズ」(注186)の創刊を見た。ニューズ・ワールド・コミュニケーションズは、「フリー・プレス・インターナショナル」という通信社を所有しているが、これは隔週のニューズレターを出版している。もう一つの冒険的事業は、主役のマッカーサ元帥役にローレンス・オリビアを起用した、朝鮮戦争中の仁川上陸についての映画を制作したことだったが、これによって運動は巨額の損失を被ることになった(注187)。

ICUS会議は毎年、感謝祭の週末集会に世界中から科学者やその他の学者たちを引き付けるために続いてきた。それらに加えて、多数の異なる宗教の神学者たちが『原理講論』を含む多様な教義について議論するために招待される「神様会議」、そして世界中からいくぶん当惑したジャーナリストたちが参加した「メディア会議」、また例えば、弁護士、牧師、カウンセラー、福音主義者、学者のような団体のより小規模な会議が多数行われた。これら(及びその他の)の集会は、結果的に運動の出版社による論文集の出版につながった。その他の統一教会が後援する運動には、東洋における多くの学者を魅了し、ヨーロッパや北米でも成長し始めている「世界平和教授アカデミー」、南米における共産主義闘争に特に関心をもっている「米州社会統一のための協会連合」(CAUSA)がある。

しかしながら、運動は世界中の権威的立場にある人々に影響を与えたり、支持を得たりすることにのみ、あるいはそれを主として、集中してきたと考えるべきではない。1970年代の終わりにかけて、文は「ホーム・チャーチ運動」として知られるようになることを始めた。各々のムーニーは、彼が訪問し、何らかの方法で援助しようとする360家庭の「区域」に責任をもつよう(少なくとも理論上は)意図された。老婦人たちは買い物や室内装飾を手伝ってもらい、寂しい母親たちは子守や心の通った会話で助けられる。そしてもし、ホーム・チャーチ・エリヤの人々が受けた愛のこもった奉仕に感動し、結果として統一教会についてより良く思うようになれば、おそらく教会を支持する草の根運動がゆっくりと成長し、統一教会が作り続けてきた反感と闘うことになるだろう。

1978年には、フレーザー委員会の会議があり、運動のさらなる調査を要求する報告書が出版された(注188)。これと11月にジム・ジョーンズの信奉者たちが集団自殺をした悲劇によって、メディアと反カルト運動はにわかに活動を再開させた。統一教会その他の新宗教運動に対する信仰を放棄するよう説得を試みる目的で、成人した子供たちに対する法的保護を親が求めたため、ディプログラマーおよび立法者との成年後見制度をめぐる闘争が続いた。1977年3月に、S・リー・バブリス裁判官は、5人の統一教会メンバーの両親が子供を30日間拘留することを認め、次のような宣言を行った。「(両親は)子供たちに対する責任を負っている。そしてこれらは成人であるが、私が以前言ったように、親が90歳になり子供が60歳であったとしても、子供は子供である。彼らはなおも母と子であり、父と子である。両親はなおも責任をもち、彼らは自分の子供たちの利益のために働くべきである」(注189)。その判決は後の上訴審で覆されることになったが、そのときまでに5人のうち4人が成功裏にディプログラムされ、新宗教運動メンバーに対する法的支配を獲得するためのさらなる試みを継続するための基盤が築かれた。その試みは、新しい運動だけでなく、より古い伝統的な教会のいくつかや、特にアメリカ市民自由連合に対しても懸念するものとなった。

統一教会の法的立場――そしておそらく、その他の宗教団体の法的立場――は、文が脱税容疑で有罪判決を受け、2万5千ドル(プラス費用)の罰金を科せられ、18カ月の禁固刑を言い渡されたとき、さらなる公的な議論に突入した。文の抗弁は、その資金は彼の名前で銀行に預けられたが、彼はそれを教会に委託されて保有していたのであり、資金に対する利息は課税の対象にはならないはずだというものだった。相当数の組織が法廷助言書を提出し、もしその有罪判決が支持されるとすれば、彼らの実践や利子もまた有罪になる可能性があると表明し、文が実際に刑務所に行く時期が近づいて来ると、広範囲の宗教教派からなる数百名の聖職者が、その裁判は根本的に宗教迫害の一つであるという根拠で、裁判所の判決に抗議するラリーをワシントンで行った。

統一教会はその法的闘争で敗れたように見えるが、ムーニーたちは、文の入獄は犠牲という至高の行為であると解釈した。そしてそれは、自由と神を中心とした社会の名において、宗教的偏狭のみならず無神論的共産主義との闘争において、運動がアメリカとおそらく全世界の教会を一つにするための、極めて重大な出来事であると解釈されているのである。

(注178)アメリカ統一教会『文鮮明』18ページ。
(注179)文「アメリカに対する神の希望」。
(注180)同書、1ページ。
(注181)『タイム・マガジン』1976年6月14日付。
(注182)『統一ニュース』1984年1月、24ページ。その本文は、私が告げられた25万という数字がより正確であることを示しているが、見出しは実際に50万人が参加したと述べている。
(注183)『ニューズ・ワールド』は1976年12月31日に創刊された。マイケル・ヤング・ウォーダー『もう一人の見張り人:ニューヨークの最新の日刊紙と日曜版のあらまし』ニューヨーク、ニューズ・ワールド・コミュニケーションズ、1977年。『ニューヨーク・トリビューン』は1983年4月4日に創刊された。
(注184)1980年4月22日に創刊。
(注185)1982年5月17日に創刊。
(注186)1983年3月7日に創刊。『ワシントン・タイムズ、逆境に打ち勝つ』ニューヨーク/ワシントン、ニューズ・ワールド・コミュニケーションズ社、1983年を、その発端と初年についての説明のために参照。
(注187)石井光治『「インチョン」記念著作』ワン・ウェイ・プロダクション、1982年。
(注188)D・フレーザー『韓米関係調査』。
(注189)アーヴィング・ルイス・ホロウイッツ『科学と罪と学問:文師と統一教会の政治学』マサチューセッツ州ケンブリッジ/ロンドン、マサチューセッツ工科大学プレス、1978年、205-6ページ。アンダーウッドとアンダーウッド『天国の人質』207ページ以下。

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