アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳24


第3章  統一教会の信条(1)

統一教会は本当は宗教ではないということがときどき言われているが、これは無意味なことである。どのような基準によっても、統一教会が宗教であることは極めて明確である(注1)。もちろん、極めて例外的に、その神学の広範な概要を受け入れないままに運動に留まっている、ほんの少数のメンバーがいるのであるが、その神学は、今世紀後半に興ったいかなる新宗教運動と比較しても、最も包括的なものであることはほぼ間違いない。『原理講論』は、独自の宇宙論、神義論、終末論、救済論、キリスト論、そして独自の歴史解釈をもっている。

その神学は、私が信じるに、統一教会の最も重要な資源の一つである。すべてのムーニーが教義全体を受け入れているわけではない。何人かのムーニーは、その神学を十分に理解しているが、その他は基本的教義の表面的理解しかしていない。しかし、すべてのムーニーが『原理講論』を「実践している」という認識をもっている。もし人がムーニーを理解しようとするのであれば、少なくとも、彼らの数字に対する最小限の神学的志向くらいは、神学に対する理解が必要である。というのは、それが教会内の日常生活のあらゆる側面に引き出される内因的論理を含んでいるからである。その神学は、ドイツ語で言うところのWeltanschauung、世界観、人生観を提供し、信じる者たちを一つにし、信仰を共有しない人々と彼らを分離する。それは関係性と方向性と意味を提供する。それは言語と、コミュニケーションと解釈の手段を提供する。そして、それは嫌な仕事をする理由を提供し、無条件の服従を命ずることを正当化するのである。

本書において我々が関心をもっている点は、統一神学が、新会員を入会させることにおいて二つの重要な役割(一つは直接的に、もう一つは間接的に)を演じているということである。第一に、どのような形式を取るにせよ、修練会の中心的焦点はその神学である。活動の大部分は『原理講論』についての講義か、それについての議論を中心に組まれている。第二に、メンバーたちは、彼らが「原理」に従って生活しているがゆえに、自らがそういう類の人々になりつつあるものと自己表現する。ムーニーがそのゲストたちに言うには、この新しい啓示を知ることによって、彼らを「異なった」存在にするための希望と幸福と目的が与えられるのである。ゲストが「原理」を理解することができたときのみ、彼もまたこの幸せで愛のある共同体の一部になることができるだろう、そしてまた彼自身とその家族、そして実に全世界のために、より良い人生を望むこともできるようになるだろう、ということが言われている。

その神学はまた、運動が生み出した敵意の多くの原因でもある。おそらく、他の信仰を強く保持する人々は、それを異端とか、神を冒涜するものだと考えるだろうと思われる。それはキリスト教の信仰であると主張するがゆえに、許容される聖書解釈の既存の領域に疑問を投げかけたり、脅威を与えたりする。そして、それは新しい「内部的な」世界観とコミュニケーションの手段を提供するので、ムーニーと彼らの家族や友人たちとの間に従来あった相互理解のパターンを混乱させたり、阻害したりする。それによって、家族や友人はムーニーの精神状態や健康状態に対する恐れを抱くようになる。

 

検証についての主張

文鮮明が神とイエス、その他の霊人たちと対話したと主張しているということ、そしてこれらの対話は『原理講論』に包含されている啓示の特別な情報源となっているということは既に説明した。文はまた、原理は、何の苦労もなしにやすやすと与えられたものではないと主張している。彼は、自分自身で「それを獲得する」ために熱心に研究し、祈祷しなければならなかったと主張する。彼は霊的接触によって手がかりを与えられ、それを正しく獲得しているかどうかを確かめるためにチェックする(そしてチェックされる)ことができる知識の根源にアクセスすることができた。その神学の形成は、組織の形成と同様に、試行錯誤をベースとして発展してきたように見える。

「あなた方が善悪を知る木について知りたいとしましょう。・・・ある一定のレベルまで、霊人たちはそれが何であるかを告げることができます。しかし、最高の真理については霊人たちはあなた方を助けることはできません。彼らが告げないのは、彼らが知らないからなのです。そして、神様は即座にあなた方に告げないでしょう。ですからあなた方は、自分自身で研究し、見いださなければなりません。ですからあなた方は(明瞭で公平な良心の)この90度の位置から、神様に「この善悪を知る木は本当に木なのですか?」と尋ねることができます。それが正しくないことは、すぐに分かるでしょう。それは何か別のものです。ずっと求め続けるならば、最終的にそれが何であるか分かるでしょう。・・・あなた方が神と一体となる時、その答えを知ることができるのです。…そのようにして私(文)は、サタンの罪を発見したのです(注2)。」

しかし、文が正しい答えに到達したときでさえ、神は、彼が正しいということを二度否定して彼を試したと言われている。文が三度目に主張したとき、神は彼が本当に理解し、確固たる信念を持っていることを知ったのである(注3)。

入会しそうな人々に『原理講論』を教えるとき、講師は、神学の真理性を正当化するために、その啓示が文に対してなされたという論点に依拠しない。他の証明が提示される。これらは場所によって強調の仕方が異なっている。ヨーロッパやアメリカの大部分では、検証のための基本的主張は聖書に置かれている。『原理講論』の各ページには、聖書の参照がたいてい少なくとも1回はあり、ときには1ダースかそれ以上もある(注4)。

別の種類の「証明」は、文から来るのではなく、霊界から他の者たちへ直接的に来たと主張されている。霊能者や霊媒者との関係は文の生涯の顕著な特徴であり、草創期から彼の信者の多くは「霊的に開かれた」人々や、「来世」とのコミュニケーションを体験したことがあると報告する人々だった(注5)。そのような体験の正当性を受け入れる多数の人々のために(注6)、文のメッセージの真理性を証しする独立した啓示について、おびただしい数のストーリーが語られている。

霊界から開示された情報で最も広く引用されているものの一つは、アメリカの最も有名な霊媒者の一人アーサー・フォードによる『Unknown but Known』という本の中で公表されている。一方、アメリカにおいてはまだ1960年代初期だった頃に、ドリス・ワルダーがサー・アンソニー・ブルックに出会っている。彼はサラワク王国(訳者注:1841年~1946年にボルネオ島北部【現在のマレーシア・サラワク州とブルネイ】に存在した白人王国。ジェームズ・ブルックが建国し、ブルック王朝三代が統治した)の「白人王」であったイートン校卒業生で、ユニバーサル・ファウンデーションというイギリスの霊的グループを導いていた(注7)。ブルックは文に夢中になり、韓国にいる彼を訪ねた。彼は1964年にフォードと同席し、フレッチャーと呼ばれる霊媒者から次のように告げられた。「文氏があなたの意識にもたらした聖なる目的は、簡潔にこのように言うことができる。『人類は自らの全ての性質と、自身と神との関係に対する理解を取り戻す必要がある(彼はインスピレーションの声、助言)」』(注8)。それからブルックは、文が初めての世界巡回でアメリカにいる間に、文自身がフォードと同席するように話を取り決めた。フレッチャーは、次のような主旨の霊界からのメッセージを伝えた。「真理のみ霊である聖霊は文を通して、今日のどのような個人を通して語るよりもっと明瞭に、もっと完全に語ることができる」(注9)。

しかし、『原理講論』あるいは文が神のものであるというしるしを受けたと報告するのは、決してプロの霊媒者たちだけではない。修練会のゲストたちはしばしば、統一教会の教えを受け入れるか否かについて何らかの疑問があるならば、彼ら自身で導きを求めるために祈らなければならないと告げられる。祈ってみると、本当に教えが真理であるという何らかの明瞭な明示を受けた、と多くの者が言っている。これは、とりわけそれが非常に直接的であり社会的関わり合いによるものではないように見えるので、そのような体験をもつ人々にとっては特に説得力のある検証である。しかしながら、個々人が見た夢や体験にかかわっている間に、既に統一教会の信条(第3章、第5章参照)を受け入れている人々によって、あるいは社会的関わり合いの中で、これらがしばしば「解釈された」と見ることもできる。霊界からの情報が、時には誰かが間違った伝達を受ける結果になるように見えるとき、これは、サタン的力の結果として、あるいはそれほど劇的にではなくても、間違った情報として解釈されてきた。その間違った情報は、霊界のより低い階層にいる人々自身が無知であるがゆえに、伝達されてくるのである(注10)。

(注1)連邦裁判所と州裁判所の双方が、いくつかの訴訟で、統一教会は本質的に宗教的であり、したがって(すべての宗教の自由な実践を保証する)憲法修正第一条の保護を受ける権利があるとした。とりわけ、「統一教会は、歴史的類推、哲学的分析、裁判の判例(実際に米国移民帰化局自体の基準による)によって、真正な『宗教』として認められなければならない。」『統一教会対移民帰化局』547F、補足623, 628(1982年)を参照。
(注2)「再臨主についてマスター・スピークス」MS-1、1965年、3ページ。
(注3)これは数人のムーニーによって繰り返されてきたが、周藤健「120日修練会マニュアル」未出版の翻訳、ニューヨーク、世界基督教統一神霊協会、399ページ、アレン・テイト・ウッド&ジャック・ヴィテック『ムーン・ストラック:私のカルト生活の回顧録』ニューヨーク、モロウ、1979年、120ページを参照。
(注4)劉孝元『原理講論』ワシントンDC、世界基督教統一神霊協会、1973年。金栄輝『統一原理スタディー・ガイド』ニューヨーク、世界基督教統一神霊協会、1973年(ロンドンにて出版、世界基督教統一神霊協会、1977年)。郭錠煥『概説統一原理:レベル4』ニューヨーク、世界基督教統一神霊協会、1980年。
(注5)金元弼『お父様の路程と我々の信仰生活』ロンドン、世界基督教統一神霊協会、1982年、2ページ以下。J・ロフランド『終末論を説くカルト:回心と改宗と信仰維持の研究』改訂版、ニューヨーク、アービントン、1977年。本書第3章。ウッド『ムーンストラック』92ページ。
(注6)とりわけ、『最新の動向』第4巻、№2、プリンストン宗教研究センター、1982年2月号、5ページ。デヴィッド・ヘイ『内なる空間の研究:20世紀に神はまだ存在し得るか?』ハーモンズワース、ペンギン、1982年。アリスター・ハーディ『人間の霊性』オックスフォード、オクスフォード大学出版、1979年を参照。
(注7)ゴードン・J・メルトン『アメリカ宗教事典』二巻組、ウイルミングトン、ノース・カロライナ、マックグラス、1978年、第2巻、122-5ページ。M・L・ミクラー「ベイエリアにおける統一教会の歴史:1960-74年」未出版の修士論文、連合神学大学院、カリフォルニア大学バークレー校、1980年、69ページ。
(注8)アーサー・フォード『Unknown But Known』ニューヨーク、ハーパー&ロウ、1968年、112ページ。
(注9)同書、123ページ。
(注10)P・F・ハットン「統一教会の紹介」学位論文、謄写印刷物、ケンブリッジ大学、1974年、14ページを参照。M・B・マクガイアー『カリスマのコントロール:カトリック教会ペンテコステ運動の社会学的解釈』フィラデルフィア、テンプル大学出版、1981年を、カリスマ団体の指導者が、権威ある立場にいない人々が「異言を語る」のをどのように解釈し、コントロールするかについての秀逸な分析として参照

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