<第二部 4.大阪大学における取り組み②>(23)


大和谷厚氏による第二部の4番目の記事「4.大阪大学における取り組み」の二回目です。大学は「カルト対策」として何ができるかについて、彼は以下のように述べています。

 

「まずは、①被害学生を把握します。これにはなかなか難しい問題があります。多くは、学外関係者からの通報や情報提供、ご父兄や学生からの相談でわかるのですが、個人情報の保護や思想信条の自由の問題がありますので、あくまでも教育的な配慮のもとに慎重に情報収集することが肝要です。」(p.205)

 

ここで問題となるのは、大和谷氏が「カルト」に関わっている学生を最初から「被害学生」と決めつけていることです。多くの場合、学外関係者や父兄、他の学生が情報源となっていることからも分かるように、学生本人が「自分はカルトによって被害を受けた」と訴えてくるケースは非常に少ないのです。本人は特定宗教やサークルに所属していることに満足し、充実感や幸福を感じていたとしても、「被害学生」と決めつけて「救済」の対象としてしまう精神構造がそこにあります。何度も述べてきたように、これは「魔女狩り」的な発想です。「被害」とはあくまでも本人が自覚しなければならないものであるにも関わらず、第三者が勝手に「被害者」に認定してしまうわけです。

 

大和谷氏は口では「個人情報の保護」「思想信条の自由」「教育的な配慮」などど耳触りの良いことを言っています。しかし、彼が実際にはこうした概念を全く意に介していないことは、室生忠氏の『大学の宗教迫害』で報告されているように、学生のレポートを通じての「密告システム」でCARP学生を特定したり、本人を尋問して脱会させたり、他のメンバーの密告を強要したり、学生の保護者に連絡して反対牧師を紹介したりしていることからも明らかです。

 

「次に、②学資負担者に、積極的に情報提供し、親権者による被害学生の自立支援を助けます。このときには学外カウンセラーや脱会者のお力を貸していただくことが必要です」(p.205-206)と言っています。

 

こんな短い文章の中にも問題は満載です。まず、本人の了承なしに学資負担者に思想信条にかかわる情報を提供するのは、プライバシーの侵害です。学生が自分の意思で親に話す前に、大学が過剰に介入することによって事態を悪化させる危険性が大です。次に「親権者」という言葉は、未成年者の親に対してしか用いることはできません。学生が20歳を超えれば親には親権はありませんから、彼の論理は成り立たないにもかかわらず、実際には20歳を超えた学生や、大学院生に対してさえ介入がなされます。次に「自立支援」という言葉は「カルトの学生は自立できていない」という偏見に基づいています。これも魔女狩り的な発想の表れと言えるでしょう。さらに、彼の言う「学外カウンセラーや脱会者」が、反対牧師や強制改宗屋と、彼らによって脱会させられた元信者であるとすれば、これは国立大学が特定の宗教を抑圧して別の宗教を支援していることになるので、憲法違反の行為となります。

 

「そして、③ダミーサークルの活動について、関係者や関係機関への情報提供を行います。ダミーサークルはボランティア活動を手伝っていることが多く、これらの活動に関わっている地方公共団体や教育委員会の責任者や、商店街、NPO団体などイベントの主催者に直接お会いし、お話しします。」(p.206)と言っています。

 

これは要するに、「カルト」視された団体は、たとえ社会に貢献する活動をしていても、関係者に悪い噂を流して活動を妨害され、市民権を剥奪されることを意味しています。ここまでくると完全に「いじめ」にほかなりません。表面上は「反社会的活動をしているから」「危険だから」「有害だから」というのが「カルト対策」の理屈なのですが、実際には「良いことをしていてもダメ!」が大学の本音なのです。そこには、どうしても「カルト」に市民権を与えたくないという偏狭な執念があります。「カルトは絶対悪なので、たとえ良いことをやっていても、それはカモフラージュか偽装工作に過ぎない」という恐ろしい考え方があるのです。

 

続いて、「④課外活動の活動状況を把握してダミーサークルである場合には公認を取り消す」(p.206)と言っています。この文章では、「ダミーサークル」の定義がそもそも不明確です。恐らく、学外に何らかのバックがあるサークルはすべて公認を取り消され、潰されることになるのでしょう。

 

最後に、「⑤学生、特に新入生に対しては、キャンパスの中でのカルトの実態を具体的に示して注意喚起します。特にご父兄も出席されている入学式でお話しすることは有効ですし、本学では、全一年生に必修講義として『大学生活環境論』と題してカルトの問題も含めたキャンパスライフでの注意事項を講話しております。」(p.206)と結んでいます。「大学生活環境論」は既に説明したように、「カルト予防」と「カルト狩り」を目的とした授業です。

 

大和谷氏は、「カルト問題を放置せずに学生を守ることは大学の社会的責任です。学生の思想・信条には関与しません。ただ、学生がカルト団体に関わることで、人権侵害・人格破壊につながる恐れがあると認められる場合には、私どもは学生に対して安全配慮義務を負っているわけですから学資負担者には情報提供する義務があります」(p.207)と主張します。これは、大学側が「カルト対策」を正当化する際の常套句です。しかし、この言い方が示しているのは、たとえ「カルトの被害」に関する客観的な事実がなかったとしても、大学の一方的な思い込みによって「カルト対策」を強行できるということなのです。

 

それは「学生がカルト団体に関わることで、人権侵害・人格破壊の被害を受けたという事実があった場合に」対策を講じると言っているのではなく、「人権侵害・人格破壊につながる恐れがあると認められる」だけで対策ができると言っているからです。「恐れ」自体がまだ事実の確定していない主観的な認識である上に、「恐れがあると認められる」という主語のない曖昧な表現が採用されることによって、判断の主体と基準が巧妙に隠されているのです。

 

「カルト対策」を行うのは大学ですから、「恐れがあると認める」主体は大学にほかなりません。ですから、大学が主観的に恐れありと認めれば、事実や根拠がなくても取り締まりますよと言っているのです。実際には学生から苦情や被害の訴えがなかったとしても、大学が恐れを感じさえすれば取り締まれるのだということです。

 

大和谷氏は、こうした本音を「5.質疑応答」の中で自ら暴露しています。
「いろいろなところに話を持っていって、積極的な介入をしていかないと、これは社会的な問題ですので、なかなか解決につながらない。ですので、あえて言いますと、待ちの姿勢でやっている相談室では、これは対応できない。相談に来るのを待っているというのでは無理で、情報が得られれば積極的に介入していって、次々と被害学生の実態を明らかにして、それに対してどうするかということをケースバイケースで考えながら対応していく。」(p.217-218)とあるように、学生が被害を訴えるのを待っていても来ないので、大学当局が自ら問題を作り出して介入しないといけないと言っているのです。これは平野学氏が言った「打って出る」と同じ意味であり、大学当局の本音を表現した言葉であると言ってよいでしょう。

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