<第二部 3.学生相談の立場から>(20)


櫻井義秀、大畑昇編著の「大学のカルト対策」の書評の20回目です。この本の第二部の三番目の記事は、「3.学生相談の立場から」というタイトルで、平野学氏が担当しています。彼は、「学生相談の現場に話を引き寄せる形で」「カウンセラーとして対応上どのようなことを心がけているか」(p.187)という前提で話をしています。

 
平野氏は自分の立場について、「精神科の病院臨床、それを踏まえて1990年代から学生相談中心の仕事になりました。慶応の5つのキャンパスを、非常勤という立場ですが、日替りで毎日回っています。」「カルト関連のケースとの関わりということでは、1990年代の後半にJSCPR(日本脱カルト協会)に入会してから関わる機会が増えました」(p.188)と説明しています。

 

慶應大学に関しては、北大や阪大のようにカリスマ的存在がいるわけではなく、積極的な「カルト対策」も行っていない大学と位置づけています。「カリスマ的存在」とは、おそらく櫻井義秀氏と大和谷厚氏のことを指すのでしょう。

 

平野氏は現場からの報告として、大学で現在、問題があるとされる団体として以下のような宗教団体をリストアップしています。
・キリスト教系:統一協会、摂理、ヨハン早稲田キリスト教会
・仏教系:浄土真宗親鸞会、顕正会、幸福の科学
・その他:サイエントロジー

 

以上が、東京の学生が関わりやすい団体だということらしいのですが、注目すべきは、彼が学生相談とカルトとの関連について「件数としては多くはないのだろうと思います」(p.190)とはっきり述べている点です。そもそも、学生相談というのは学生に何か悩みがあったりトラブルに巻き込まれたときに、自ら相談に来るところです。カルトの問題が本当に大学における深刻な問題として存在するのであれば、カルトの被害を受けたという学生が学生相談室に多数押しかけてきて、被害を訴えていなければならないはずです。

 

しかし事実はそうではなく、平野氏が言うように、「クリニック的な、『待ち』の姿勢が強いところや人ではなかなか出会わない」(p.190)というのが現実なのです。このことからまず分かることは、大学における「カルト問題」というのは、学生相談の件数から言えば極めてマイナーな問題であり、実際には「カルトから被害を受けた」と言って相談に来る学生は極めて少ないということです。

 

そこで、待っていてもカルトに関する相談は来ないので、「単なるカウセリングというよりも少し打って出るとか、教職員とのいろいろな連携、学内でのさまざまな工夫、本学会特有の単なる心理臨床レベルを越えた現実的な議論になる」(p.190)と主張します。これは何を意味するのでしょうか? 要するに、相談件数から客観的に被害の存在を認識することはできないので、積極的に啓蒙して探し出すことにより、「被害の実態」を作り出していかなければならないということなのです。

 

大学は、カルト対策を正当化するための常套句として、「被害を防ぐため」「苦情があるから対応せざるを得ない」「学生を危険から守るため」という表現をよく使います。しかし、客観的な学生相談の件数から言えば、「カルト」の問題というのはほとんど出会わないようなマイナー問題なのです。にもかかわらず、あえて「打って出て」対策をするということは、実際の学生のニーズに答えるというよりも、むしろ思想的な動機に基づいて作為的に「カルト対策」が行われていると言わざるを得ません。

 

平野氏はこの記事の中で、「ケースを分類してみると」と題して興味深い分析をおこなっています。すなわち、カルトに関する学生相談の事例には以下のようなパターンがあるというのです。
第一群:親や友人からの相談(圧倒的に多い)
・親御さんが相談に来る場合が目立つ
・話を聞いて、推測される団体の情報や資料を提供する
・入り込んでいる度合いがどのレベルか推測する
・親の面談が中心
・本当に深く入り込んでいる場合には、学外の詳しい人と連携して慎重に対応する必要
第二群:本人が入信しかけて抜け出てきた
・CARPの40日間の合宿の途中で抜け出してくる学生の事例
・状況把握をして、サイト情報で資料を提示する
第三群:長年の入信を経て脱会してきたケース
・友達を失って孤立している場合
・キャンパスの居場所の提供という意味で、休学や留年をした学生と同じような対応
第四群:親が金銭がらみでカルトのターゲットになったケース
・学資の問題でトラブル
・家族の他の人たちにも来てもらって、学生課や被害者救済に詳しい弁護士とも連携し合いながら、取り組んでいくことになる。(以上、p.190-193の要約)

 

平野氏の解説によれば、「カルト」の問題で学生相談室に来るのは、本人が相談に来るケースよりも、親や友人が相談に来るケースが圧倒的に多いのだということが分かります。カウンセリングというのは、通常は本人の希望を受けて、悩みを聞いてあげることが目的です。にもかかわらず、「カルト」の問題に関して言えば、「カルト」に関わっている本人が学生課に相談に来たり被害を訴えたりするケースはむしろ少なく、周りの人間、すなわち親や友人が心配して相談に来るケースが「圧倒的に多い」というのです。

 

これは、「私は被害に遭っている」という本人の訴えに答える形の対応ではなく、「家族や友人が被害に遭っている」と思い込んでいる第三者の訴えに答える形での対応が圧倒的に多いということです。そして、それに対する対応の仕方は、本人の意志を確認せず、その第三者の願う方向に沿って、本人が問題を抱えているという前提に立って、「救済」のための介入を指導することになります。これは人権の観点から大きな問題があります。

 

通常、臨床心理士を訪ねて、「私に精神の異常がないかどうか調べて欲しい」と言えば対応してくれるでしょうが、「私の隣人がキチガイかもしれないから調査してほしい」と頼んだら、「本人の同意を取って連れてきてくだされば、みます」と言って帰されるでしょう。それがカウンセリングの立場というものです。本人の同意なしに介入するのは、人権侵害になる恐れがあるからです。

 

しかし、平野氏の説明する大学の学生相談は、「カルト対策」に関する限り、この一線を簡単に踏み越えてしまい、親や友人の相談を受け入れて、本人の思想信条に関わる問題に介入しようとするのです。平野氏の発言からはっきり分かることは、学生相談の窓口が、家族や友人を学外の反カルト活動家につなげるルートになっているということです。こうした「学生相談」のあり方は、大いに批判されてしかるべきでしょう。

カテゴリー: 書評:大学のカルト対策 パーマリンク