「カルト」概念の背景


第2章:「カルト」概念の多義性

 

まず、いま学内では堂々と「カルト」という言葉が使われています。先程の日本学生機構が発行する雑誌、あるいは学生課の行っているオリエンテーションや、特定の教授が行う授業などでも堂々と使われています。そして、そこでは「学内のカルトに対して対策を練らなくてはいけない」と言われています。まず、その「カルト」という言葉自体が問題であることを提示しなければいけません。なぜかと言いますと、この「カルト」という言葉自体が極めて多義的な言葉なので、明確には定義できないのです。「多義的」とは、「いろいろな意味がある」ということです。したがって、「カルト」という言葉は、使う人によって違う意味合いで使われているのです。そのような言葉でもって、特定の団体にレッテル貼りをし、規制しても良いのかということがポイントになります。

では、この「カルト」という言葉は、本来どのような意味で使われていたのでしょうか。「カルト」とは、もともと何かを崇拝するとか、祭儀、祭祀などの意味がありました。少なくとも近代的な使われ方がされるようになったのは、社会学、特に宗教社会学の中で「カルト」という概念が生まれてからなのです。ただし、ここでは何か侮蔑する、見下げるという意味ではなく、価値中立的な概念としてあったのです。宗教社会学とは、宗教現象を社会学的側面から研究する学問で、すべての宗教に対して価値中立的な立場をとるということが大前提になります。つまり、どの宗教が真理でどの宗教が間違っているという判断をしない、あるいは善悪の判断や優劣の判断をしないのです。ただ「宗教の構造がこうなっていて、このような機能やこのような役割があります」ということを客観的に分析するのが宗教社会学の使命です。ですから、宗教的社会学的概念であれば特定の宗教を誹謗したり、批判したりするような概念ではありません。

「カルト」という概念はこのような学問的背景をもって生まれてきました。では、その「カルト」という言葉が出てくるまでの研究について、お話しします。まず、背景としてマックス・ウェーバーの「カリスマ論」というものがありました。宗教において人を引き付ける力のことを「カリスマ」と言いますが、ウェーバーは宗教団体における権威がどのように変遷していくのかを、3つのパターンに分類しました。つまり、宗教団体における権威には「伝統的権威」「カリスマ的権威」「合理的法理的権威」の3種類があると主張しました。「伝統的権威」とは、カトリック教会や日蓮宗のような非常に長い伝統のある宗教が、それ自体、伝統ゆえに権威を持っているということです。「カリスマ的権威」とは、ほぼ新興宗教、新宗教になります。非常にカリスマ的なリーダーが現れ、その人の言うことがすべて真理である、といった権威のあり方を指します。そして「合理的法的権威」とは、十分に整えられた教義や神学、あるいは聖典の編纂などによってもたらされる権威のことです。

一般的に新宗教というものは文化的、または社会的危機の時代に、カリスマ的指導者が率いるセクトとして出発します。そのカリスマ的権威は革命的で、不安定なものであり、そのグループがいわゆる制度化、インスティチューショナライゼーションの過程を踏まなければ、創始者の死後に急速に消失してしまいます。つまり、新しい宗教が生まれるときというのは、傑出したリーダーが現れて、そのカリスマ的指導者がすべて決定して、その存命中はうまくいきます。しかし、指導者の死後は、その指導者が語った内容を聖典や法にして制度化していかなければ、そのカリスマ的指導者の死と共に宗教団体は消えてしまうのです。すなわち、そのようなカリスマを制度化できるかどうかが、新宗教が存続するためのポイントになるわけです。

カリスマ的権威であったけれども、カリスマが日常化されることによって合理的な権威に変わり、それが時と共に伝統的な権威に変わっていくというように、権威のあり方が時間と共に変化していくという宗教社会学的分析というものがまずあるのです。その中で「チャーチ」「セクト」という2種類の教会のあり方の類型論がウェーバーなどの研究で生まれてきました。「チャーチ」というのは、国家や社会に公認されている既成の教派を指します。社会にしっかりと根を下ろし、社会の一部のように確立されている教会のあり方で、カトリック教会などが典型です。一方、社会に対して強硬的かつ断絶的な姿勢を持つ過激主義的宗教グループは「セクト」と呼ばれました。カトリックを批判して出現したプロテスタント、そこから派生した様々なキリスト教の諸派などは、基本的に大きな「チャーチ」があって、それに満足できない人たちがどんどん分派しながら新しい教団を作っていきました。そういった既存の教派と緊張関係にある新しい団体のことを「セクト」と呼びました。社会学的分析によれば、ヨーロッパでは「チャーチ」と「セクト」という2種類の教会があります。これは別に良し悪しを説いているのではなく、教団の持っている性質の話なのです。

ところがそのうち、「チャーチ」「セクト」では説明できない現象が起こり、新しい類型が生まれました。それが「デノミネーション」です。教会の分裂が進んで、宗教がたくさん並列するようになってくると、いわゆる宗教的多元主義の時代を迎えます。例えば、ヨーロッパから非国教的セクトの信者たちが、信仰の自由を求めてアメリカに移住していきました。もともと、そこには国家に公認された教会としての「チャーチ」がありませんので、移住していった小さな教団が、それぞれ根を張っていくことになります。アメリカの宗教事情というのは結局、自発性の高い各教派が、国王もなく国教もない新天地で、平等に共存しつつ伝道するようになっていったのです。このような状況は「チャーチ」「セクト」では説明できません。いろいろな教派が共存、並存しています。そこでは自分たちの教派が唯一の真理を独占しているとは一般的に主張しません。しかし、そのことによって各教派が平和的に共存できるような宗教的状況が生まれるのです。いわば宗教のフリーマーケットみたいな状態です。周囲の社会との緊張関係が比較的低い教団が多数並列に存在する、このような教団のあり方を「デノミネーション」と呼びました。

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