『世界思想』巻頭言シリーズ08:2021年7月号


 私がこれまでに平和大使協議会の機関誌『世界思想』に執筆した巻頭言をシリーズでアップしています。巻頭言は私の思想や世界観を表現するものであると同時に、そのときに関心を持っていた事柄が現れており、時代の息吹を感じさせるものでもあります。第八回の今回は、2021年7月号の巻頭言です。

UPFの宗教的な理想がSGDsに魂を吹き込む

 2015年に採択された「持続可能な開発目標(SDGs)」は、日本国内では2017年から社会的な認知度が高まり、いまや一つのブームとなっています。「神の下の人類一家族」という宗教的な理念を掲げる国連NGOであるUPFは、SDGsとどのように向き合うべきでしょうか。

 実は17の目標と169のターゲットからなるSDGsを構成する文言の中に、「宗教」という言葉はたった一度しか出てきません。それも差別を受けないという文脈の中で「宗教に関わりなく」という形で登場するのみです。霊性(Spirituality)という言葉も出てきません。SDGsは全体として物質的で現世的な目標が多く、精神的な豊かさに直接関連するような項目は少ないのです。

 一方で、LGBTへの言及もなく、人口動態に関する目標もありません。その理由は、価値観によって意見が大きく分かれるデリケートな問題を避けたためだと言われており、多くの人々に受け入れられる最大公約数的な目標となっているのです。

 しかし、SDGsが掲げる理想と目標は基本的に良いものであり、決して宗教と相性の悪いものではありません。SDGsはその前身であるミレニアム開発目標(MDGs)に比べて、環境問題に強い関心を示しています。これは地球で人類が安全に活動できる範囲を科学的に表示した「プラネタリー・バウンダリー(地球の限界)」という概念が提示されたためであり、人間が環境保護を考慮せず、利益を追求し続ければ、世界が立ち行かなくなることが認識されるようになったためです。「自分たちさえよければいい」では、結果的に自らの首を締めることになるというのは、古来より宗教が説いてきた教えの一つです。

 SDGsの基本理念は「誰一人取り残さない」ですが、これはイエス・キリストの「迷い出た一匹の羊の譬え」を彷彿とさせる、極めて理想主義的なものです。MDGsが2015年までに貧困や飢餓の「半減」を目指すなど、目標の達成に重きを置いていたのに対し、SDGsではそれらの「撲滅」を掲げるなど、多くは2030年までに実現可能かどうかという根拠には基づかず、「あるべき理想の姿」として設定されているのです。

 SDGsの策定には、国連加盟国や国際機関のみならず、NGOやビジネスセクターも参加しました。立場の異なる者同士の間を取り持つ「世界の共通言語」としてのSDGsは、パートナーシップを構築する上では非常に有益なものです。そして公的セクターがこうしたパートナーとして期待しているのが、潤沢な資金力と人材を有するグローバル企業です。

 最近はSDGsにネガティブな影響を及ぼす企業活動は社会的なペナルティを被るリスクが高いので、これを回避するために、自分たちはSGDsに貢献しているとアピールする企業が増えてきました。しかしアリバイ作りのようにそれを行えば、「SDGsウォッシュ」(うわべだけのSGDs)という批判を免れません。

 宗教的な理想は、SGDsに魂を吹き込み、それを実現していく内的原動力になり得ます。そこにこそ「神の下の人類一家族」を目指すUPFの役割があるのではないでしょうか。

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