『生書』を読む33


第八章 開元の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第33回目である。第31回から「第八章 開元」の内容に入ったが、その続きである。前回は山口日ケン(ケンは田に犬)という法華経の行者と中山公威という政治運動家が大神様のもとを訪ねてきた物語を扱った。彼らは大神様に出会うべくして出会った「準備された人々」であり、救世主の出現を待ち望んでいたのであった。

 『生書』には、山口氏と中山氏の両名がはじめて大神様の所を訪問したときの様子が描かれているが、それはひとことで言えば大神様の霊威に圧倒されて感服したということであった。二人は帰る道すがら「大変なことになった。とうとう自分たちがさがし求めていた救世主に巡り会った。それも一介の農家の主婦として現れておられる――。」と、驚きと感激に打たれて、当分口もきかなかった。(p.224)と『生書』は記している。今回はその翌日の出来事を扱う。

 二日目の大神様との面談は、問答による対決という形で始まった。大神様が負けたら山口氏の弟子になり、逆に山口氏が負けたら大神様の弟子になるという条件で、まず山口氏が15分の時間を与えられてしゃべることになった。その内容は、彼のこれまでの研究の成果を表そうとしたもので、難しい経文を引っ張り出しての説法であった。しかし5分も経たないうちに大神様はそれをさえぎって歌い始めたのである。
「蛆の世界じゃ、宇宙そのもの神なのに、偶像祭壇並べ奉り、石の地蔵や、金仏、御影や御祓指さして、観念論や空想で、経文、本を読み立てて、己の心の悟りも開けぬ乞食の坊主や神主が、なんぼう、行け、行け、行けと言うたとて、なんで行かりょか実相の世界。実相の世界を説く者は、実相の世界におって説かなきゃ嘘なので、こんな役座も天父がつくりましたよ。」(p.225-6)

 これは既存の宗教指導者、教義や教学、ならびに宗教的シンボルに対する痛烈な批判であるが、こうした語り方は「カリスマ的指導者」の持つ典型的な特徴である。旧約聖書の預言者たちは、常に偶像を否定し、儀式や形式にとらわれずに心の中に神を迎えよと叫んできた。カリスマ的指導者は形骸化した伝統を否定して、自らの権威によって新しい規範を提示するのであるが、これはイエス・キリストの「しかし、わたしはあなたがたに言う」という言葉に典型的に表れている。『マタイによる福音書』の中には、この定型句を用いたイエスの言葉がいくつも出てくる。
「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。」(マタイ5:21-22)
「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」(マタイ5:27-28)
「また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。」(マタイ5:31-32)
「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」(マタイ5:38-39)
「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(マタイ5:43-44)

 イエスは旧約聖書に出てくる律法の言葉を引用し、それが愛のない形式主義に陥っていることを見抜いて、それを否定する新しい規範を自らの権威(しかし、わたしはあなたがたに言う)によって提示していることがわかるであろう。イエスの言っていることは旧約の律法の否定というよりは、律法の真の目的が忘れられ、形式主義に陥っている者たちの視点をより心の内面に向けさせようとしたのである。しかし、それは形式に強いこだわり持っている人々(パリサイ人など)にとっては革命的で破壊的な言葉として受け取られたのであった。

 こうした「カリスマ的権威」の概念は、宗教社会学者マックス・ウェーバーによって提示されたものである。ウェーバーは、「恩寵の賜」とのいう語義をもつカリスマの語を、「ある個人のもつ非日常的な資質」という意味で用いているが、彼はここに世界を変革しようという革命的性格を見出した。このカリスマ概念は、ウェーバーの宗教社会学における主要概念の一つである。カリスマは、「人間を『内部から』革命し、事物や秩序をその革命的意欲にしたがって形成しようとするもの」であり、伝統主義的な宗教意識を打破し、世界の新たな意味を述べようとするものである。内部からその革命的力を示すカリスマは、規則や伝統一般を打ち砕き、従来の神聖性概念を覆すという作用をもつ。そして、慣行的な、かつては神聖だったものの代わりに、新たな神聖性への服従を要求するのである。

 しかし、こうしたカリスマ的権威は生来的に不安定なものである。そのことをもう少し詳しく解説しよう。ウェーバーは宗教団体における権威がどのように変遷していくのかを、3つのパターンに分類した。すなわち、宗教団体における権威には「伝統的権威」(traditional authority)、「カリスマ的権威」(charismatic authority)「合理的・法的権威」(rational-legal authority)の3種類があると言った。「伝統的権威」とは、カトリック教会や日蓮宗のような非常に長い伝統のある宗教が、それ自体、伝統ゆえに権威を持っているということである。「カリスマ的権威」は、カリスマ的指導者の個人的権威に由来し、「その人の言うことはすべて真理である」という権威のあり方を指す。そして「合理的法的権威」とは、十分に整えられた教義や神学、あるいは聖典の編纂などによってもたらされる権威のことである。

 一般的に新宗教というものは文化的、または社会的危機の時代に、カリスマ的指導者が率いるセクトとして出発する。そのカリスマ的権威は革命的で不安定なものであり、そのグループがいわゆる制度化(institutionalization)の過程を踏まなければ、創始者の死後に急速に消失してしまうのである。制度化とは具体的には、その指導者が語った内容を聖典や法にして体系化することである。創始者の存命中はそのカリスマによってすべてが決定されるのであるが、死後は判断の基準を客観的なものとして示さなければならない。すなわち、カリスマの日常化、制度化ができるかどうかが、新宗教が世代を越えて存続できるかどうかのカギを握っているのである。

 カリスマが日常化されることによって、その教えの革命性は徐々に薄れていき、聖典、法、制度といったものに権威が与えられ、それによってカリスマが去った後の教団の秩序が保たれるようになる。しかしこれは不可避的に、はじめは生き生きとして魂のこもっていた教祖の教えが、次第に形骸化していくという結果をもたらすのである。それに対して不満を持った者の中から新しいカリスマ的指導者が誕生する。およそ宗教の歴史というものはこの繰り返しであった。

 しかしながら、大神様のこうした言葉や振る舞いに対して、家庭連合の信徒たちはどこか共感を持つに違いない。なぜなら『原理講論』の中に「キリストのみ言に対する実践力が失われ、灰色に塗られた墓場のごとく形式化してしまった現下のキリスト教の実情」(総序)とか、「終末に処している現代人は、何よりもまず、謙遜な心をもって行う祈りを通じて、神霊的なものを感得し得るよう努力しなければならないのである。つぎには、因習的な観念にとらわれず、我々は我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい時代の摂理へと導いてくれる新しい真理を探し求めなければならない。」(終末論)とか、「我々は、因習的な信仰観念と旧態を脱けでられないかたくなな信仰態度を、断固として捨てなければならないことを、この洗礼ヨハネの問題を通じて教えられる」(メシヤ論)に代表されるように、形骸化して因習に囚われている人々に対する批判が多数出てくるからである。それは文鮮明先生ご自身が、キリスト教の伝統の中にあって革命的な教えを説いたカリスマ的指導者にほかならないからである。

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