『生書』を読む22


第六章 終戦と大神様の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第22回目である。第19回から「第六章 終戦と大神様」の内容に入った。天照皇大神宮教においては、第二次世界大戦の終戦をもって皇祖神の拠り所が天皇陛下から北村サヨ氏に移動することが予定調和的に理解されており、終戦が近づくと同時に神の摂理も急ピッチで進むようになるのであるが、一般的な終戦の日付と天照皇大神宮教の理解には、微妙なずれが存在する。それは天照皇大神宮教においては8月12日が特別な意味を持っているからである。それは以下の記述から明らかである。
「思えば長い年月の行の道であった。昭和十七年八月十二日に行を始められてから満三年、夜水かぶり、昼水かぶり、日には六度も水をかぶり、世人からは『神経、気違い、信仰のぼせ、やりもの、つきもの、嫌われ者』にされつつ、ひたすらに神国のため、神の命じ給うまにまに行ぜられ、思い出の八月十二日を迎えること、三度にして、神はいよいよ神の国建設という一大聖業を果たさせ給う神役者の座長をつくられたのである。

 十二日には赤飯を炊かれ、集い来る者にふるまって、心からのお祝いをされた。

 大神様は前もって、八月十二日には重大ニュースを聞かせると言われた。これを聞いた者は、何の発表があるのだろうかと心待ちにしていたが、いっこうにそれらしいものがないので、わざわざお家まで問いに来る者もいた。彼らに対して大神様は「ぬんだ(延びた)、ぬんだ。」と言われたのみだった。発表はなかったけれど、その日こそ日本の降伏が連合国側に入れられた日であったのである。」(p.152-3)

 要するに、「肚の神様」は終戦の3年前から日本の降伏の日を知っていて、昭和17年8月12日に教祖が平井憲隆氏の所を尋ねたことをきっかけに丑の刻の日参詣りを始めさせ、そこからちょうど3年たった8月12日に終戦の日を迎え、そのときから救世主としての本格的な出発をするように計画していたということである。だからこそ、8月11日に教祖に対して自らの正体を明かして決定的な啓示を下されたのである。したがって、天照皇大神宮教においては本来の終戦の日は8月12日であったが、これが人間の側の事情によって3日延長して8月15日になったということなのである。宗教的な意味での「神の予定」ということであれば、こうした延長があったかなかったかは検証不可能であるが、日本がポツダム宣言の受け入れを連合国側に通達した日に対する理解については、一般の史実とは異なっている。ポツダム宣言の受諾と日本の終戦の日に関する一般的な記述は以下のようなものである。

 ポツダム宣言は、1945年7月26日に連合国によって発表された。当時の鈴木貫太郎内閣においては、鈴木首相、東郷外相、米内海相らは「国体護持」のみを条件に受諾もやむなしと考えていたが、阿南陸将ら陸軍がこれに強く反対した結果、受諾を保留し、宣言を「黙殺」するという声明を新聞に出すことになった。連合国はこの「黙殺」を受諾拒否と受け取り、その結果広島(8月6日)と長崎(8月9日)に原子爆弾が投下され、さらにソ連が参戦(8月8日)することにより、戦局が一気に悪化した。

 日本政府は御前会議において8月10日午前2時半に、「国体護持」を条件にポツダム宣言受諾を決定した。しかし、陸軍の一部では戦争継続を主張して、クーデター決行の準備が進んだ。こうした中で再度御前会議が開かれ、8月14日正午前に無条件降伏受諾の決断を天皇に再び仰いで最終的に決定し、この日に連合国側に通告した。敗戦の詔勅は天皇自ら録音し、それが8月15日に「玉音放送」として国民に直接語り掛けられた。

 日本では一般に「終戦の日」は8月15日として定着しているが、正確には「終戦の詔勅を天皇が国民に示した日」であり、日本国家としてのポツダム宣言受諾は8月14日に決定され、連合国側に通達されている。このことは全世界に公表されており、それを知らなかったのはごく一部を除く日本人だけだった。事実、アメリカでは8月14日に日本が降伏することが報道されており、その日にトルーマン大統領はポツダム宣言の内容を国民に説明し、日本がそれを受諾したことを告げた。翌日(8月15日)のニューヨーク・タイムズ紙の一面には“JAPAN SURRENDERS, END OF WAR!”という見出しが踊っている。

 また、太平洋戦争、日中戦争、第二次世界大戦が正式に終わった日付は、アメリカ軍艦ミズーリ号上で日本が降伏文書に調印した9月2日である。したがって、国際的には9月2日が戦争の終わった日とされている。ロシアでもアメリカでも対日戦勝利は9月2日となっており、中国が「日本の侵略に対する中国人民の抗戦勝利日」としているのは9月3日である。8月12日に日本が幸福を決定して連合国側に通達したという『生書』の記述は一つの宗教的信念であって、客観的な史実ではない。

 さて、『生書』には大半の日本人が敗戦の事実を知らされる8月15日の前日に、大神様が警察から呼び出されて、特高課から説法の内容について注意されるというストーリーが出てくる。当時は特高警察といえば誰もが恐れをなす存在だったのだが、大神様にかかってはまるで赤子扱いである。この辺のストーリーは、既に敗戦の事実を「肚の神様」を通して知らされ、未来を予見できる大神様にとっては、世俗の権威など怖くもなんともないという態度を示すことにより、教祖の特別な位置を表現していると思われる。

 いよいよ「玉音放送」によって敗戦の事実が国民に知らされた8月15日、大神様はすでにそのことを予見しておられたので、まるで何事もなかったかのように、いつもと同じように説法をされたという。ここで『生書』に描かれているのは、敗戦に打ちひしがれる聴衆と、生き生きと教えを説く大神様の対比である。

 当時の日本国民は、「寝耳に水」のような敗戦の悲報にショックを受け、沈痛な顔をしていたという。長い間の教育によって、漠然とではあるが神州不滅を信じさせられ、国土が危うくなったときには必ず神風が吹くことを頼りにしていたので、敗戦の詔勅を聞いても、それを事実として受けとめることができずにいたのである。そこに連合軍の最高司令官マッカーサーがやってきて、いよいよ敗戦の現実をひしひしと感じ始めた大衆は、神州不滅の自尊心も吹き飛ばされ、虚脱感を感じはじめていたのである。

 それに比べて大神様はよく肥えて血色がよく、一点の憂いのかげもなく堂々を歌説法をしていた。その説法の内容は、むしろ敗戦は良いことだったと言わんばかりである。それは「神州不滅」「神風」「戦争に勝つ」という日本人が信じていた概念を、宗教的に読み替えてしまうことによって未来に対する希望を提示するという作業であった。
「戦争に負けたんじゃないぞ。あれは蛆の喧嘩が済んだのじゃ。戦争はおれらが今からやる。本当の戦争はこれから始まる。早く真人間に立ち帰れ。真人間になりさえすりゃ、戦争に勝てるぞ。」「祈れ祈れ。一生懸命祈れ。今度の戦争は祈りで勝つのじゃ。」(p.162)「無条件降伏とは、無上の剣が降伏になったのよ。紀元二千六百五年の八月十と五日を御縁として、人間の崩れた世の中おしまいですよ。われら(お前ら)の乞食の世界は永遠に消えたのだ。蛆の世界の暮れの鐘が、神のみ国の夜明けの鐘だったのよ。夜明けだ夜明けだ、神の国の世は開けた……。」(p.163)
「この戦いがあればこそ、神のみ国ができるのじゃ。」(p.164)
「ええ神風じゃのう、マッカーサーが来ればこそ――。」(p.164)

 こうした説法を聞いた聴衆は、意味ははっきり分からないものの、なんとなく希望が持てるような気がして心が明るくなり、それを契機に神行の道に入る者も出てきたという。

 もともと大神様は、日本が戦争に勝つか負けるかは日本の国力や戦略戦術によって決まるのではなく、一人ひとりの日本人が神の前に正しい真人間であれば戦争に勝つのだと説き、利己心を捨ててお国のために働くことを人々に勧めていた。この戦争に日本が負けることは最初から決まっていたわけではなく、戦争を通じて日本人が真人間になる道もあったかもしれない。しかし実際には利己的な人間が増え、日本は神の敵となったので、むしろ戦争に負けることによって、日本が生まれ変わる道が開かれるようになった。大神様の言う「日本が勝つ」という言葉は、戦争に勝つという意味ではなく、戦争に負け、米軍に占領されることによって人々が真人間になるのであれば、結果的に日本の国は神の眼から見れば「勝った」ことになるという意味である。結局、勝ち負けは真人間になるかどうかによって決まるのである。このように戦争や勝ち負けに対する視点を変えることで、大神様は終戦直後の日本人に希望を与えようとしたのである。その意味で日本の敗戦は、一種の「終末論的な出来事」として天照皇大神宮教ではとらえられていることになる。

カテゴリー: 生書 パーマリンク