『生書』を読む14


第五章 救世主の自覚と神の国の予言の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第14回目である。第12回から「第五章 救世主の自覚と神の国の予言」の内容に入った。ここから「肚の神様」の本心が前面に出てきて、日本の国や戦争に対する考え方に変化が見られるようになった。その変化とは、第一に天皇陛下を中心とする国体イデオロギーの否定であり、第二に戦争の批判であった。今回は、「肚の神様」が教祖である北村サヨ氏に対して自分自身をどのように開示し、さらに教祖に対してどのような自覚を持つように促したかについて分析したい。

 「生書」の記述は、ユダヤ・キリスト教の「聖書」と同様に、神と人との不思議なやりとりが含まれており、独特な言い回しや象徴による表現が多いので、よほどその世界観に通じていないとテキストの意味を正確にとらえることが難しい。「生書」が書かれた背景は、戦後間もない時代の山口県の田舎である。何百年も時代が離れているわけではなく、同じ日本語なので意味が分からないわけではないが、当時の時代的な空気、人々が常識としていた考え、田舎の文化などを理解していなければ分からない部分も多い。それでも私自身がキャッチすることのできる重要なポイントをあげてみたい。

 「肚の神様」の啓示の特徴は、段階的な自己開示である。初めは自分のことを「とうびょう」と言っていたものが、次には「口の番頭」というようになった。そして今度は「指導神」と名乗り出したのである。「肚の神様は」以下のように語っている。
「おサヨ、われ(お前)を一番初めに見た時のことを言うてやろうか。八尋石の八幡宮が、われをお産するする時、われの頭の絶頂に止まって、『みんなこれを助けえ。これを助けねば助ける者がない。』と言うてから来て見ると、われの顔じゃったが、われは昔からおもしろい女じゃったのう。その後、女神の選挙したれば、国光の神がより出し、次々とわしの家来を遣わして、われを指導させ、粗鉋(あらがんな)が済んで、仕上げ鉋(がんな)がかかったから、今度は磨き鉋(がんな)をかけに、わしが来たのじゃ。」(p.91)
「教祖は『それじゃあ、今度の神様はどなたか。』と尋ねると、『指導神じゃ。』と言われた。」(p.92)

 この記述によると、まるで大工の鉋がけように分業して、複数の神々が教祖に磨きをかけるために関わってきたことになっている。ある意味では教祖の自覚のないまま、生まれた時から神々がその教育に関わり続けてきたことになる。同じような記述は他の部分にも見られる。
「おサヨ、お前は今まで人より頭がよい、頭がよいと思うてきたろうが、生まれてから次々と、わしの家来のものを遣わして、指導をしてきたのじゃ。こうしてわしがおサヨの肚に来て、いろいろと教えてやるが、急に偉くなったと思うなよ。」(p.77)

 神の段階的な自己開示という概念は、統一原理の中にも見られる。要するに人間の心霊的な成長段階に応じて神はそれにふさわしい現れ方をして、その段階にふさわしい関係を人間と結ぼうとするということである。もともとは神と人間の関係は親子の関係であったが、人間が堕落することによって、もとは天使(僕)であったサタンに主管される存在になってしまったので、「僕の僕」の位置に落ち、神が分からなくなってしまった。そこで旧約時代には神は「主」として現れ、主人と僕という関係を人間と結ぼうとしたのである。それが新約時代には人間は「養子」の段階に引き上げられ、成約時代には「実子」の立場に引き上げられる。その度ごとに神と人間の心情的な関係は新しい段階に入っていくという考え方である。統一原理は一神教の伝統の上に立っているので、これらの神は別々の神ではなく、唯一の神が人間から見て異なる現れ方をしたという理解になる。

 一方で、聖書の「創世記」の中では、神が天使を通して人間に現れ、アブラハムやヤコブなどの聖書中の人物が天使を神だと思って対するという記述も見られる。これはまだ人間の心霊が低かったために、神が直接啓示することができず、天使を通して人間と関係をもっていたのであるとも理解できる。

 こうした観点から「生書」を読むと、はたして「とうびょう」や「口の番頭」が宇宙の絶対神の違った自己紹介の仕方なのか、それともその家来に過ぎなかったのかは、にわかに判別しがたい。宇宙の絶対神には家来のような神々がおり、それが順番に教祖に働きかけ、教育してきたのであるという理解も可能である。

 この段階での啓示の重要な特徴は、国体イデオロギーの否定に続いて、教祖を天皇陛下に取って代わる位置に立てようとする意志であった。まず、いまの天皇は生き神でも現人神でもなく、置物に過ぎず、「あさっての方を向いている」と批判している。そしていまの国体は本当の国体ではないとまで言っているのである。
「また同じ元日のことである。肚の神様が急に『今年は、宮城を一棟残して、みんな焼いてやる。』と言われ出した。教祖はびっくりして、『何を乱暴言うか。』と言われると、
『乱暴であるか、日本の国体を忘れた。日本の国体とは、この日本の国土と、天照皇大神宮と、国を守る番人の王様と、三つが一つになったのが国体じゃが、その国体を忘れて、番人の王様はあさっての方を向いてしまった。』」(p.99)

 その天皇の位置に取って代わるのがお前なのだと、「肚の神様」は教祖に語るのである。
「肚の神は、神眼をもって教祖に、目にもまばゆい玉露の玉をおしいただかせ、
『これが、天皇のみ位につく時、受け継ぐ玉ぞ。と。
今度は、目にも美しい天蓋の瓔珞を目の前に見せて、
「これが、皇后がみ位につく時、受け継ぐのぞ。じゃが、天皇のも、皇后のも人造ぞ。われ(お前)にゃ、本物をやるから行をせい。』と。(p.101)

 さらには「肚の神様」は神眼によって教祖に、王蜂を中心として集団生活をする蜜蜂本来の姿から逸脱し、王蜂が腹を返してひっくり、ひっくりしている姿を幻で見せ、以下のように語っている。
「おサヨ、これは何か教えてやろうか。

 王蜂はあさっての方に向き、今に大罰が当たるのだ。働き蜂は路頭に迷うて騒いでいる。天皇陛下のためならばと言って、命まで投げ出して、家も道具もなくしてきたのに、天皇の心は、あさっての方にそれてしまった。

 おサヨ、われ(お前)に、さあ参ろう、さあ水かぶれ、さあ心の行をせいと、やかましく言うて苦労させたが、苦をしたび(くび)に、われに生路(蒸籠)を持たしてやる。働き蜂はみなお前について来るのぞ。」(p.104)

 これらの言葉は、いまの天皇は本来の位置を外れているので、その位置におサヨを立てるのだという意志を「肚の神様」が示しているということになる。それでは、そのような大それたことを言う「肚の神様」とはいったいどんな存在なのか? それは以下の言葉から明らかになる。
「おサヨ、おれの女房の天照大神が『あなたのお国は、よく乱れましたのう。』とやかましく言うから、おれは『おお、待て待て、そのうち時が来る。』と待たしてあるから、早う行をせい。」(p.92)

 この言葉によれば、「肚の神様」は天照大神の夫であるということになる。
「『伊勢が嫌さに家まで焼いて、百姓の女房のおサヨの肚に、ぺっかと据わった上からにゃ、天が地になろうと、地が天になろうと、ひっくり返し、ひっくり返し、世根の蛆退治した上に、新国日の本神の世の、世の礎にならにゃならないおサヨの体だもの。伊勢は木灰、お伊勢、お伊勢と、おいらの名前を売って食ろうた宮司の餓鬼の飯の食い納めさせるがおもしろいぞ。』とそれを説明される。
『おサヨ、おもしろい世の中じゃろうが。伊勢の宮司のばか宮司が、おれのようなものが逃げたのも知りやがらん。

 伊勢に参ったら、昔は神々しいと言いよったが、今は神なき後の神屋敷、行ってみいや、神々しゅうもなんともないぞ。』」(p.107)

 これは、それまで伊勢神宮にいた「肚の神様」が、そこを去っておサヨの肚に宿るようになったということである。言うまでもなく、伊勢神宮の祭神は天照大神である。皇祖神である神が伊勢神宮を去って、おサヨの肚に宿るようになったので、おサヨは天皇に代わって日本の国を治める立場に立つのだということが言いたいのである。

 肚の神様は教祖に対し、「二千六百五年の昔から神が天降る所を、ちゃんと決めていたんじゃ。蛆の祭りのお旅所と同じことで、神輿を降ろす所があろうがの、今はおサヨがお旅所なのじゃ。」(p.77)とも語っている。皇紀2605年は西暦で言えば1945年、終戦の年である。すなわち、終戦の時をもって皇祖神の拠り所は天皇陛下から北村サヨ氏に移動することが、昔から予定されていたのだということである。「肚の神様」はこの段階になって、その壮大なビジョンを北村サヨ氏に告げたことになる。

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