『生書』を読む12


第五章 救世主の自覚と神の国の予言

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第12回目である。今回から「第五章 救世主の自覚と神の国の予言」の内容に入る。第四章までは、「肚の神様」から啓示を受けるまでは大神様には特別な思想的傾向はなく、当時としてはごく普通の愛国的な婦人であったこと、そして「肚の神様」が入った後も、しばらくの間は戦争や当時の日本政府のあり方に対する批判的なことは語っておらず、お国のために熱心に働く献身的な国民であったことを明らかにした。しかし、この章からは「肚の神様」の本心が前面に出てきて、日本の国や戦争に対する考え方に変化が見られるようになる。私としては、特にその点に注目して分析を試みたいと思っている。

 第五章の初めに語られているのは、「肚の神様」に関する奇譚の数々である。
「初め教祖の肚の中でものを言い出したものは、今度は教祖の口を直接使うようになった。頭に何も考えず口を開けば、説法や歌が後から後から尽きることなく出てくるのである。」(p.73)

 これまで「とうびょう」と言っていたものは、今度は「口の番頭」を名乗り出し、いろいろの不思議を教祖に見せたという。例えば「口の番頭」が教祖に草取りをさせ、その命じた部分では少しも力を入れずに楽に草を抜けるのに、命じた以外の部分に手を出すと、どんなに力を入れてもうまく抜けないとか、血圧の高い教祖の血圧を下げるために血を多量に下してみたり、教祖の体を前後にゆすって、一人息子の義人氏が乗った船が魚雷に沈められないように守ったり、といった具合である。

 第四章では人間としての北村サヨ氏が「肚のもの」に支配されるのではなく、それと必死に戦いながら対峙していたことが述べられていたが、第五章では「肚のもの」は直接教祖の口を使って語り出したということであるから、これはシャーマンの状態に近い。人間として必死に抵抗したとしても、時には「肚の神様」に憑依されるような状況になったことが分かる。

 ここで出てくる奇譚の数々は、宗教的なテキストによく登場するような物語であるが、それは「肚の神様」が人知を超えた不思議な力を持つ存在であることを示し、人間としての北村サヨ氏がそれを受け入れ、屈服していくプロセスとして描かれている。最初は邪神か狐か狸の類だと思って闘っていた存在が、正しい神であると認識され、それと一体となっていくということだ。

 草取りの物語は、自我を捨てて「肚のもの」と一体となれば万事うまく行くのだという教訓を示しており、あくまで「肚のもの」が主体であり、人間である北村サヨ氏は対象であるという各位が示されている。このときから「肚の神様」は主体として北村サヨ氏を教え諭し、「思いもよらないようなこと」を言い出すようになったのである。人間としての北村サヨ氏の思想は、当時の国体イデオロギーから外れるものではなかったし、日本という国を離れたり、超越したり、批判的に見るような視点はなかった。しかし、あるときから「肚のもの」は教祖に対して、日本の国を超越するような話を始めたのである。
「おサヨ、天照皇大神宮というのは、日本小島の守護神として思うなよ。宇宙を支配する神は一つしかありゃしない。キリストの天なる神、仏教の本仏というのもみな一つのものぞ。われら(お前ら)が南瓜を、かぼちゃと言うたり、とうぶらというのと同じじゃ。じゃからこの日の本の国をなくするような神はおりゃしないが、天にはえこもひいきもありゃしない。神の肚に合わぬ者が神の敵じゃ。」(p.76-77)

 後に教団の名称となった「天照皇大神宮」は、そもそもは伊勢神宮の内宮の別名である。その祭神は天照大御神であるから、まさに日本神話の主神であり、皇室の先祖に当たる神道の中心的な神である。「肚のもの」は、それを日本に限定された神ではなく、キリスト教や仏教をも包含する、宇宙を支配する唯一神という概念に拡大させてしまったのである。ここではかぼちゃという身近な素材が例として用いられているが、これはイギリスの神学者ジョン・ヒック(1922-2012)が著書『神は多くの名前をもつ』の中で言ったことと本質的に同じである。すなわち、どんな宗教にも神はいるのだが、その神は別個のものではなく、神がたくさんの名前をもったにすぎなという考え方である。いまでこそエキュメニズム、超宗派運動、宗教多元主義などの出現によってこうした考え方は広く知られるようになったが、当時としては画期的な考え方であっただろう。

 これは「肚の神様」が日本を相対化し、それを超越した存在であることを示しており、人間北村サヨ氏に対しても同様の飛躍を要求するものであった。すなわち、それまでは皇国日本の価値を信じ、日本が戦争に勝つことが神の願いであると信じていた教祖に対して、「天にはえこもひいきもありゃしない。神の肚に合わぬ者が神の敵じゃ」と言ったのである。これは日本は無条件に神の側にある特別な存在なのではなく、神の肚に合わなければ神の敵になることもあり、戦争に負けることもあるのだという意味である。模範的な日本人であり愛国的な婦人であった北村サヨ氏からすれば、これを受け入れることは一つの自己否定であっただろう。

 「肚の神様」が当時の軍隊や銃後の国民について語った部分は、内容的には以前とあまり変わらない。要するに戦地で苦労する軍人がいる一方で、それに乗じて内地で闇取引きをしたり私腹を肥やす者がいることを非難している。同時に、軍の中にも利己的な行動をする者がいることを非難している。ここまでは一つの倫理的な発言として、当時の規範に反するものではないだろうが、その次に語られたことはまさに革命的であった。
「また非常に驚いたことに、それまで大君のためなら、天皇陛下のおんためならと、一人息子を捧げて悔いなかった教祖に、天皇の悪口を話し出したのである。
『天降って根の国を治めよ、と言った天皇の子孫がのう、二重橋から四重橋、六重橋までかけて、箱入りになり、釘止めにされて、目ばりされて、天井に放り上げられ、置物になったのが今の蛆の天皇じゃあないか。天皇は生き神でも現人神でもなんでもないぞ。』」(p.79)

 これは天皇を根本的に否定しているわけではないが、現在の天皇は傀儡に過ぎず、現人神ではないと言っている。「蛆の天皇」に至っては不敬罪に当たるであろう。いまや「肚の神様」は、国体イデオロギーを否定する存在となった。当時としては十分に危険思想と言えるだろう。それを口にすることはあまりにも危険だったので、平井氏は教祖の身の上を思って、皇室の悪口だけは言わないように諭したという。しかし、それで臆して信念を曲げるような教祖ではなかった。実はこの問題は、教祖として立ち上がっていく上で一つの試金石となり、決断を迫るものとなったのである。「肚のもの」は次のように言った。
「おサヨ、われ(お前)がこうして、あちらこちらで皇室の悪口を言うて歩いていると、われはいつか捕まえられて死刑になる。義人は責任を感じ、腹を切って死ぬる。清之進は気が違って死ぬる。われのところの目腐れ財産は、親戚の者が分け取りにする。」「誰かが犠牲になって、国救いをやらにゃあこの国は救えないのじゃが、どうか。」(p.80)

 ついに「肚のもの」は殉教や家族の犠牲を示唆してきた。これに対して教祖はそれを受けて立つ決意をする。
「ようし、自分が死に、家の者が死に、自分のところの目腐れ財産がなくなるくらいで、この国が救えるなら、どうぞこのまま使って給え。」「槍でも鉄砲でも来い。神がいる者ならば生かして使う、いらない者なら、いつ死んでも惜しくない」(p.80-81)と心に誓い、神に命を捧げて国救いをやるという教祖の肚は決まったのである。

 この辺のくだりは、表現こそ日本的な浪花節風の言葉遣いにはなっているが、ユダヤ・キリスト教の『聖書』における預言者の召命や、信仰による迫害を甘んじて受ける信徒の決意に通じるものがある。モーセにしてもエレミヤにしても、神の召命を受けたときには、それが自分に世俗的な幸福をもたらすものではなく、むしろ苦難や迫害をもたらすことを知っていたため、一度は召命を受け入れることを躊躇した。それでも敢えて神の命令に従うことを決意したのが預言者と呼ばれる人々である。イエスは弟子たちを宣教に送り出すとき、「人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。…またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。…またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう」(マタイ伝10:17-22)と語っている。また、キリストに従うことは十字架を背負うことであるとも言っている。

 大神様にとって、国体イデオロギーとの決別は、既存の宗教伝統、文化、社会的常識を打ち破って新しい信念体系を打ち立てるということであり、新宗教の教祖としての主体性を明確にしたということであった。

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