『生書』を読む20


第六章 終戦と大神様の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第20回目である。先回から「第六章 終戦と大神様」の内容に入った。天照皇大神宮教においては、第二次世界大戦の終戦をもって皇祖神の拠り所が天皇陛下から北村サヨ氏に移動することが予定調和的に理解されており、終戦が近づくと同時に神の摂理も急ピッチで進むようになる。昭和20年7月22日に、教祖は自宅で初の説法を行い、いよいよ神の御言葉の種をまき始められる。

 8月に入ると、ポツダム宣言、広島への原爆投下、長崎への原爆投下、そしてソ連の対日宣戦布告により、日本の情勢はもはや絶望的になる。8月10日に日本政府が御前会議を開いて降伏を決定し、ポツダム宣言の条項に基づいて連合国に和を請うたことにより、日本の敗戦は事実上決定する。ちょうどその翌日、8月11日の夜に、教祖は決定的な啓示を受け、強烈な神体験をするのである。大部分の国民が日本の敗戦を知らされるのは8月15日の「玉音放送」によってである。したがって『生書』の記述が歴史的事実なら、「肚の神様」は公式な発表に先立って日本の敗戦を知っていたことになり、そのことを教祖に啓示していたという、いかにも「神憑り」的な話となる。『生書』は戦後になってから書かれたものであるから、後から歴史を振り返って、あたかも神の計画が予定通りに進んだかのように構成したのではないかと疑うことは可能である。しかし、ここではそのことに深入りするよりは、天照皇大神宮教の世界観を明らかにすることに専念したい。

 件の8月11日に肚の神が語ったのは、以下のような内容であった。
「十一日の夜中の鐘もろともに、今までとうびょうと言うたのも、口の番頭と言うたのも、指導神と言うたのも、もとを正せば天照皇大神の一つもの。天照皇大神の一人娘にして、世界が一目に見えるめがねをやろう。」(p.151)

 この個人ブログの第14回で、私は「肚の神様」の啓示の特徴は、段階的な自己開示であると分析した。初めは自分のことを「とうびょう」と言っていたものが、次には「口の番頭」というようになり、さらに「指導神」と名乗り出したのである。これまでは、はたして「とうびょう」や「口の番頭」が宇宙の絶対神と同一存在であり、単に自己紹介の仕方が違っただけなのか、それとも別の存在であり、絶対神の家来に過ぎなかったのかは、にわかに判別しがたいと言っていた。なぜなら、宇宙の絶対神には家来のような神々がおり、それが順番に教祖に働きかけ、教育してきたのであるという理解も可能だからである。しかし、ここではそれら三つの名前の神は、一つの神の異なる呼び名であったことが明かされる。いよいよ神の正体が最終的に開示され、それは「天照皇大神」だということが示されたのである。それと同時に、教祖は不思議な宗教体験をする。
「その時から、教祖は宇宙いっさいのもの、幽界顕界ことどとくが見え出されたのである。下は八万十万地獄を通り越し無間地獄まで、海の中の魚類から、虫から、獣からその幽霊、あるいは娑婆の人間界から天上界まで、あらゆるものを見せ、いちいちそれらの説明をつけられるのである。」(p.151)

 それは、いつも見えていたら神経衰弱になるような体験だとされ、生身の人間でありながら、神のごとき視点で世界を見ることができるようになったという、一種の宗教体験である。この体験は視覚的なものとして表現されているが、伝統的な宗教の経典で類似するものには、使徒パウロの体験がある。
「わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう。わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。」(コリント人への第二の手紙12:1-4)

 スウェーデンボルグもまた、生きながら霊界を見て来たという霊的体験に基づく大量の著述で知られている。ヒンドゥー教には「梵我一如」という思想がある。これはインドの哲学書ウパニシャッドに代表されるバラモンの根本思想で、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と個人の本体であるアートマン(我)とは同一であるというものだ。禅宗においても、瞑想修行の最中に自己と宇宙が一体であると感じるような境地に至ることがあるという。おそらく大神様にも同様のことが起こったのであろう。宗教の経典ではないが、筒井康隆の小説『エディプスの恋人』には、主人公である「七瀬」が、一瞬ではあるが宇宙の絶対神(この小説では絶対神は女性であり「彼女」と表現されている)と入れ替わるシーンが出てくる。それは大神様の体験したような、神の視点で世界を見るということがどういうことであるかを文学的に表現したものである。
「偏在感があった。七瀬は『彼女』に替り、大極に存在し、宇宙に君臨していた。存在形態としてそれは宇宙そのものともいえた。超絶対者としての、動物的視覚に依らざる認識的視野を持つことがどういうことであるか、七瀬にはわかった。単に文字通りの『視野』であってすら、もしそれを持ち得たとすればそれがいかに常人たちにとって耐え難いものであるかも、たちまち七瀬は思い知らされていた。幾億もの星雲が、宇宙に充満するすべての原子と同じ認識的視界に共存していた。ある恒星系の生成から消滅までを七瀬は、地球の片隅で一匹の昆虫が産卵する様子と同時に認め得るのだった。すべての現象が恒常感覚として掌握できた。七瀬がたまたま学生時代に読んでいたハイデッガーの実存論をこれほど容易に実感できる視点はなかった。」(『エディプスの恋人』p.195) 

 こうした神秘体験の後に、肚の神様は教祖に決定的な啓示を下さった。
「十一日の夜半から、宇宙絶対神は教祖大神様をはっきりと一人娘として娶られたのである。前年十一月二十七日に教祖の肚に天降られた指導神、または皇大神と申し上げる男神と、天照大神と申し上げる女神と御二柱の神が一体となられて、教祖のお肚を宮として天降られたのである。」(p.152)

 『生書』のこの部分は、おそらく天照皇大神宮教の教えの最も中核的な部分であり、キリスト教の「使徒信条」に当たるような信仰告白に相当するものであると思われる。すなわち、それを受け入れて信じる人が、天照皇大神宮教の信者なのである。

 ここではっきりと、天照皇大神宮教が啓示宗教であることが分かる。啓示宗教の教えの根幹は理性によって導き出されるものではなく、神の側から一方的に示されるものであり、「なぜそうなのか」という理由が合理的に説明されることはない。人間の側はそれを受け入れるかどうかの選択を迫られるだけなのである。天照皇大神宮教においても、宇宙の絶対神がどうして北村サヨという田舎の婦人に天降ったのについては説明はない。ただ、神がそのように予定して、時が来たのでそれが実現したのだという話である。

 これはキリスト教においても同じである。宇宙の創造主である神が、どうしてナザレのイエスという大工の青年として降臨したのかについては、合理的な説明はない。それは啓示によって人類に明かされたことであり、それを受け入れる者は「イエス・キリストは神のひとり子であり救い主である」という信仰を告白するしかないのである。神の「ひとり子」という表現はヨハネによる福音書3章16節に由来するが、英語では“Only-Begotten Son”といい、韓国語では「独生子(トクセンジャ)」という。イエスは何人もいる神の息子の中の一人なのではなく、たった一人の神の息子であるという点において、特別な存在だとされているのである。天照皇大神宮教における北村サヨ氏の位置は「一人娘」であるから、イエスの位置の女性版であり、同じような特別な位置であることになる。

 非常に興味深いことに、この「神の一人娘」は、現在の家庭連合において、文鮮明総裁の夫人である韓鶴子総裁に対して用いられている呼称である。家庭連合においては、文鮮明総裁はイエス・キリストの再臨であると信じられているので、文師は「ひとり子」であり、Only-Begotten Sonであり、「独生子(トクセンジャ)」である。その夫人である韓鶴子総裁は、「ひとり娘」であり、Only-Begotten Daughterであり、「独生女(トクセンニョ)」であると信じられている。天照皇大神宮教の教祖である北村サヨ氏と、家庭連合の共同創設者である韓鶴子総裁は、どちらも「神の一人娘」として神に認定され、その自覚をもって世の中のいかなるVIPにあってもひるむことなく、神の御言葉を宣べ伝える存在であることが明らかになった。

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