『生書』を読む15


第五章 救世主の自覚と神の国の予言の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第15回目である。第12回から「第五章 救世主の自覚と神の国の予言」の内容に入った。ここから「肚の神様」の本心が前面に出てきて、それまでは普通の愛国的な婦人に過ぎなかった北村サヨ氏が、自分では思いもよらないようなことを語り出すようになる。それまでの戦争肯定の姿勢から、無駄な戦争をやめよというメッセージに変わり、皇国日本の価値を信じる立場から、現在の天皇を中心とする国体イデオロギーの否定に変わったのである。そして「肚の神様」はもともとは伊勢神宮に祀られていた皇祖神であったが、いまや天皇は生き神でも現人神でもなく、「あさっての方を向いている」傀儡になってしまったので、天皇に代わって神は北村サヨ氏の肚に宿ることになり、伊勢神宮はいまやもぬけの殻になっていると言うのである。

 このような大それた話であるから、北村サヨ氏は当然のようにそれを辞退しようとされた。「肚の神様」が神眼をもって教祖に、天皇が即位する際に受け継ぐ玉露の玉と、皇后が即位する時に受け継ぐ天蓋の瓔珞を見せ、それをお前にやるから行をしろと言ったときには、教祖は即座に「いらない、そんなものは。」(p.101)と答えられたという。もともと北村サヨ氏には権力の座につく気など毛頭なかったのであるから、天皇に取って代わることを拒否されたのであろう。しかし、「肚の神様」の意図はどうも権力の奪取ではなく、天皇の果たすべき霊的な位置に彼女が立ち、日本の国を救うことを願っておられるのだということを、次第に理解し、それを受け入れていくようになるのである。このプロセスを『生書』は、「何になろうとも、どうしようとも思われなかった教祖を、神はあらゆる方法で導かれ、教祖も次第に、国救いに対する自分自身の立場を自覚し、いよいよ行に邁進されるのであった。」(p.109)と記している。

 肚の神様は教祖に対し、「二千六百五年の昔から神が天降る所を、ちゃんと決めていたんじゃ。蛆の祭りのお旅所と同じことで、神輿を降ろす所があろうがの、今はおサヨがお旅所なのじゃ。」(p.77)とも語っている。皇紀2605年は西暦で言えば1945年、終戦の年である。すなわち、終戦の時をもって皇祖神の拠り所は天皇から北村サヨ氏に移動することが、昔から予定されていたのだということである。実はこの世界観に立つと、敗戦によって天皇が人間宣言をし、神の座を降りることは、いよいよ大神様がそれに代わって生き神になっていく上で、積極的な意味を持つようになるとも解釈できるのである。
「また同じ元日のことである。肚の神様が急に『今年は、宮城を一棟残して、みんな焼いてやる。』と言われ出した。」(p.99)
「国建広路を来いと鳴く。鶏の声でお目々が覚めなけりゃ、覚ましてやります、爆弾で。」(p.102)
「持って来い持って来い爆弾を。世根の蛆の皆殺し、文明科学をぶち壊し、我の巣(家)を焼いて蛆殺して、新国日の本、神の国をつくる。」(p.103)

 これらは日本が爆撃によって火の海となり、敗戦の憂き目にあうことによってようやく目が覚め、破壊の後で新しい神の国の建設が始まることを示唆している。そして昭和20年になってからのB29の本土爆撃を、教祖が予言した言葉であるとされているのである。

 島田裕巳は、著書『日本の10大新宗教』の中で、天照皇大神宮教は極めて戦後的な新宗教であったと解説している。
「戦前においては天皇は現人神とされ、崇拝の対象となっていた。その現人神が支配する日本という国は、『神国』とされ、神国の行う戦争は『聖戦』と位置づけられた。ところが、神国は聖戦に敗れ、一九四六年一月一日、天皇は『人間宣言』を行った。突然、神国の中心にあった天皇が神の座を降りることで、そこに空白が生まれた。サヨの肚に宿った神が、天照皇大神宮を称したのも、その空白を埋めようとしたからである。」(『日本の10大新宗教』p.90-91)
「日本の敗戦と天皇の人間宣言という出来事が起こることで、そこに生じた精神的な空白、現人神の喪失という事態を補う方向で、その宗教活動を先鋭化させた。天皇に代わって権力を奪取しようとしたわけではなかったが、空白となった現人神の座を、生き神として継承しようとした。」(『日本の10大新宗教』p.102)

 「生書」を丹念に読んでいくと、島田裕巳のこの解釈が、教団の自己理解とそれほど乖離したものではないことが分かってくる。それまで日本の国において天皇の占めていた霊的な位置を、大神様が代わって受け継ぎ、敗戦後の新しい日本を建設していくのだというビジョンの上に、天照皇大神宮教という宗教は成り立っているのである。しかしここでも、時系列の問題は残ると私は考えている。それは果たしてこうしたビジョンを北村サヨ氏が持つようになったのが本当に戦争末期のことであり、既に霊的には現人神の位置を外れていた天皇が敗戦によって「人間宣言」をすることを見越して、その位置に自分が取って代わることを「予言」したのか、それとも終戦後にこうした考えに至り、それを戦争末期にまで遡って「神の啓示」を受けていたというストーリーにしたのかという問題である。

 実際に『生書』が書かれたのは戦後(第一巻が発行されたのは1951年)である。既にこのシリーズの第13回で述べたように、終戦後になってから「無理な戦争などやめたらよかったのに」というのは簡単である。それを言うのは当たり前であり、何の価値もない。まだ戦争が終わる前から、国民が一丸となって戦争に勝とうとしているときに、あえてその戦争の無理を訴え、神の眼をもって戦況を正確に把握して日本の敗戦を予想し、そのうち日本には軍隊はいらなくなると語るからこそ、先見の明をもった教祖の予言となるのである。戦後になって教祖が語られたことを、戦前から語っていたのだと遡って「予言」にしてしまうというのは、宗教のテキストにおいてはあり得ることである。これは天皇の人間宣言にも当てはまり、1946年1月1日の「人間宣言」を受けて、その空白を埋めるために自らが生き神となる決意をしたのが事実であり、それを戦争末期にまで遡って、皇紀2605年におサヨが神の拠り所になることを神の啓示によって知らされていたというストーリーにした可能性は残るのである。『生書』の第一巻が発行されたのが1951年である以上、この可能性を否定することはできない。しかし、聖書批評学と神学がどこまでも相容れないように、この問題も、信仰の立場をとるか、合理的な分析の立場をとるかによって結論は異なり、見解の一致を見ることはないであろう。

 『生書』が出版されたころには、既に日本が敗戦した事実は分かっていた。終戦前に辻説法を行っていた教祖に対して、聴衆が戦争の結果に対して質問したときの答えは、勝つとも負けるともはっきり言わない、はぐらかすような論法になっている。魂を磨いて自分と同じところまで上がってくれば教えてやるというのである。(p.85)「勝つ」と言えば予言が外れたことになり、「負ける」と言えば当時は非国民になってしまうのであるから、こうした表現の仕方しかなかったのであろう。

 一方で教祖自身が「肚の神様」に対して「戦争に負けるのか」と問うたときの答えは以下のようなものである。
「『いや、絶対に負けやしない。世界の指揮者になる。指揮者とは、よその国まで取って治めるのじゃあない。魂で慕われる国になるのじゃ。なにも欲張って、よその国まで取る必要はない。お隣はお隣であるのがよい。宇宙の絶対神に向かって、みんなが仲よしこよしで、手をつないで行けばよいのじゃ。この度は、回覧板が回って来るように、世界平和、神の国建設のお役目が、日本に回って来たのじゃ。』と話して聞かされるのであった。」(p.98)

 武力によって戦争に勝つか負けるかという質問に対して、「肚の神様」はまったく別の角度から答えている。たとえ武力による戦争においては日本は負けたとしても、他国から魂で慕われるような国になれば、それは戦争に勝ったのと同じくらいの価値があるのだと言いたいのである。これは戦後の非武装・平和主義・国際協調の重視という日本の政策と基本的に一致し、それを宗教的な言葉で表現したものであると考えられる。

 私個人の考えとしては、歴史的な事実として終戦前に北村サヨ氏が戦争の勝ち負けを予言したり、戦争に反対したり、公衆の面前で国体イデオロギーを真っ向から否定したり、自分自身が天皇に取って代わるのであると公言したことはないのではないか思う。もしそうした事実があったとすれば、大本教のような過酷な迫害を受けていた可能性があるからだ。『生書』の中に記されている戦争末期の「肚の神様」からの啓示や説法で語られている内容は、教祖の胸の内にだけ秘められていたか、あるいは戦後になってから教祖が語った内容を、終戦前に遡って投影し、未来に関する「予言」にしたのではないだろうか。

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