『生書』を読む21


第六章 終戦と大神様の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第21回目である。第19回から「第六章 終戦と大神様」の内容に入った。この章に至って、「肚の神様」は教祖に決定的な啓示を下さることになる。それは以下のような内容である。
「十一日の夜半から、宇宙絶対神は教祖大神様をはっきりと一人娘として娶られたのである。前年十一月二十七日に教祖の肚に天降られた指導神、または皇大神と申し上げる男神と、天照大神と申し上げる女神と御二柱の神が一体となられて、教祖のお肚を宮として天降られたのである。」(p.152)

 『生書』のこの部分は、おそらく天照皇大神宮教の教えの最も中核的な部分であり、キリスト教の「使徒信条」に当たるような信仰告白に相当するものであると思われる。すなわち、それを受け入れて信じる人が、天照皇大神宮教の信者なのである。ここに天照皇大神宮教の教えの中核である神観と教祖観が示されているので、それを家庭連合と比較してみたいと思う。

 天照皇大神宮教において教祖の肚に宿っている神は「宇宙絶対神」であり、その絶対神は男女一人ずつおり、一人の名は「皇大神」という男の神様、もう一人は「天照大神」という女の神様であるという。宇宙絶対神なので一神教かと思えば、男女二人いるということなので、「二神教か?」と混乱するような記述ではある。「皇大神」や「天照大神」という名前を聞くと、だれもが神道の神々を連想する。この神様は、もともとは伊勢神宮にいたのであり、それが天皇皇后に代わっておサヨを依り代にしようというのであるから、皇室の先祖に当たる神道の中心的な神、すなわち皇祖神であると解釈できないこともないが、それを超えて、キリスト教や仏教をも包含する、宇宙を支配する唯一神という概念に拡大されていることが大きな特徴である。すなわち、天照皇大神宮教は「神道」の枠の中に納まる宗教ではないのである。以上を要約すると、天照皇大神宮教は男女一対からなる「宇宙最高神」を崇めていることになる。

 一方で、世界平和統一家庭連合の創設者である文鮮明師が説いた「統一原理」は、ユダヤ・キリスト教の伝統に根差した教えであり、宇宙の創造主である唯一なる神を説いている。その意味で家庭連合は紛れもない「一神教」であるということができる。『原理講論』にも、「神はあらゆる存在の創造主として、時間と空間を超越して、永遠に自存する絶対者である」と書かれている。

 統一原理では、神は唯一神でありながら「陽性と陰性の二性性相の中和的主体」でもあると説いている。ここでいう陽性とは男性的性質をさし、陰性とは女性的性質をさしている。すなわち、神はお一人でありながらも、男性と女性の両方の性質を内包しておられるということである。

 天照皇大神宮教で教えている神と統一原理の神は、男性と女性の二人の神が存在するとするか、唯一の神が男性と女性の属性を内包しているとするか、という表現の違いこそあれ、宇宙の絶対神であり創造主である神が男女両方の要素からなっていると説いている点では似ていると言えるであろう。天照皇大神宮教は日本人に分かりやすいように、「皇大神」と「天照大神」という神道的な名前でこれを表現したが、統一原理は聖書に出てくる創造主としてこれを表現した。ただし、神を「陽性と陰性の二性性相」であるとする統一原理の神学は、聖書そのものというよりは「易学」に代表される東洋哲学の用語によって表現されたものである。『原理講論』の中でも、陰陽を中心として存在界を観察した易学の妥当性を説いており、完全ではないにしても真理の一部分をとらえたものであると評価している。総合的に見れば、表現の違いこそあれ、この二つの宗教はかなり似通った神観を持っていると言ってよいであろう。

 それでは教祖論はどうであろうか? 天照皇大神宮教における教祖の位置については、神道的な表現で示されている箇所がある。肚の神様は教祖に対し、「二千六百五年の昔から神が天降る所を、ちゃんと決めていたんじゃ。蛆の祭りのお旅所と同じことで、神輿を降ろす所があろうがの、今はおサヨがお旅所なのじゃ。」(p.77)と語っているが、これは神道における「依代(よりしろ)」の概念に近い。神社には「御神体」があるが、これは神霊が宿る物体のことである。御神体は神そのものではないが、そこへ神霊が宿ると神そのものとなると考えられている。つまり、御神体とは神が宿る「依代」であり、古代においては、石や山、木などの自然物に神霊が降臨し、依りつくと考えられたし、比較的新しいタイプの御神体には、御幣、鑑、神像などがある。こうした、神が天下るための「依代」として北村サヨ氏が選ばれたという理解が可能である。

 もう一つの理解は、「現人神」という立場である。「肚の神様」はもともとは伊勢神宮に祀られていた皇祖神であったが、いまや天皇は生き神でも現人神でもなく、「あさっての方を向いている」傀儡になってしまったので、天皇に代わって神は北村サヨ氏の肚に宿ることになったというものである。「肚の神様」の論理としては、「天皇は世をよく治めることができず、役に立たないから、そこには宿りたくない。それで、生まれついたときからこれまでおサヨを特別に訓練してきたのであり、天皇の代わりにおサヨに宿って国と世界と救うのだ」という話なのである。

 さらにもう一つの立場が、宇宙絶対神によって「一人娘」として娶られたというものである。この立場が現在の家庭連合において、文鮮明師の夫人である韓鶴子総裁に対して用いられている呼称であることは既に先回述べた。

 それでは家庭連合における教祖の位置はどうであろうか。家庭連合はユダヤ・キリスト教の伝統の上に立っているため、日本の宗教伝統とは異なり、神と人間の間に断絶のある神学的伝統を背景としている。キリスト教神学においては宇宙の創造主である神と被造物である人間の間には大きな隔たりがあり、人間が神になることはあり得ない。しかし、キリスト教神学においては「神が人になる」ということはあり得ると考えている。人類歴史上ただ一人、神が人となって地上に顕現されたお方がイエス・キリストであるとされているのである。キリスト教神学においては、イエス・キリストは「神が人となられたお方」なのであって、いわゆる教祖というような次元の存在ではない。そのくらいにイエスの位置は高められているのである。

 キリスト教においては、「イエス・キリストは神のひとり子であり、救い主である」と信じられている。神の「ひとり子」という表現はヨハネによる福音書3章16節に由来するが、英語では“Only-Begotten Son”といい、韓国語では「独生子(トクセンジャ)」という。イエスは何人もいる神の息子の中の一人なのではなく、たった一人の神の息子であるという点において、特別な存在だとされているのである。家庭連合においては、文鮮明師を「再臨のメシヤ」であると信じている。それはイエスが2000年前に成し遂げられなかった使命を果たすために再び現れるメシヤという意味であるから、文師はイエス・キリストと同等の立場であると理解されていることになる。

 家庭連合のメシヤ観の特徴は、男一人ではメシヤになることはできず、女一人でもメシヤになることはできず、あくまでも一対の男女、すなわちカップルでなければメシヤになることはできないとしている点である。これは、メシヤの役割が、本来ならば人類始祖アダムとエバが果たすべきであった「真の父母」の使命を果たすことにあると考えているためである。したがって、もしイエス・キリストがメシヤであり、「神のひとり子」であるならば、「神のひとり娘」である女性と結婚して「真の父母」になるべきであったということになる。しかし、イエスは結婚することなく十字架刑で亡くなってしまったので、この使命を受け継いだのが文鮮明師御夫妻である。

 家庭連合においては、文鮮明師はイエス・キリストの再臨であると信じられているので、文師は「ひとり子」であり、Only-Begotten Sonであり、「独生子(トクセンジャ)」である。そして、その夫人である韓鶴子総裁は、「ひとり娘」であり、Only-Begotten Daughterであり、「独生女(トクセンニョ)」であると信じられている。

 このように、天照皇大神宮教と家庭連合では、神観と教祖観において類似する部分があり、語られている用語においても似たものがある。その中で最も大きな違いは、家庭連合においては文鮮明師と韓鶴子総裁の両方に「神のひとり子」「神のひとり娘」としての位置が付与され、カップルとして「真の父母」であり、メシヤであると理解されているのに対して、天照皇大神宮教においては、生き神様であり神の一人娘であるのはもっぱら北村サヨ氏のみであり、夫である北村清之進氏に対してはそうした位置が与えられていないということである。

カテゴリー: 生書 パーマリンク