『生書』を読む18


第五章 救世主の自覚と神の国の予言の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第18回目である。第12回から「第五章 救世主の自覚と神の国の予言」の内容に入った。前回は大神様の集会に集まった人々が一番聞きたがっていたのは、戦争の結果がどうなるかということであったが、それに対して大神様は明確な答えを示さずに、魂を磨くことに専念せよと言われたことを紹介した。世俗の人々は常に、外的・客観的な世界において次に何が起こるかに関心がある。それは自分自身の損得と結びついているから、他人より早くそれを知ろうとして、教祖や霊能者に対して「未来はどうなるのか?」と尋ねる。しかし、それに対する大神様の答えは、「そんなことを心配するよりも、自分の内面を見つめ、自分を変えなければならない」というものであった。それは彼らが自己中心的な損得勘定に縛られている限りは救われることはないからである。

 『生書』には、大神様の集会に来た者たちの中に、最初は教祖を見下していた傲慢な者たちがおり、教祖もまた彼らを嫌っていたが、最後は教祖から悪口を言われることによって逆に悔い改めに至ったことが記されている。悪口というのは以下のような言葉である。
「お前たちは国賊乞食じゃ。日当もらって会席膳まで食べて、その上お礼までもらったろう。この泥棒め、どこに日当もろうた上に、お礼までもらう法があるか。お前らは南無大師遍照金剛と言うて歩く乞食より、なお上の手の乞食。」
「面を脱いだか、白髪婆――、われ(お前)みたいな蛆虫が、世の中に増えてきて、月給取っても出張費、その上お礼までもろうて歩く蛆乞食。」(p.130)

 このころの大神様の指摘する罪は、経済的な意味で私利私欲を満たそうとする類のものが多い。教祖から徹底的にどやしつけられたり、叱られたりすることによって逆に魅了されるようになるというストーリーは、宗教の世界においては珍しいものではない。典型的には、誰にも知られていないはずの自分の罪や欠点を、教祖が見事に見抜いて断罪する姿を通して、「この人は自分のすべてをお見通しだ」と感じて屈服するというパターンである。家庭連合においても、教団の初期のころに文鮮明師の弟子になった人々の証しにそのような内容が多く見られる。普通は悪口を言ったりどやしつけたりすれば嫌われるものだが、逆に魅了してしまうところが教祖のカリスマなのであろう。大神様もまた、そのようなカリスマの持ち主であったと思われる。

 ここで『生書』は、大神様が担うべき重要な使命に関する記述に入っていく。この章の結論部分であり、最も重要な箇所である。眠りにつこうとする教祖を肚の神様がむりやり起こして、以下のようなやりとりがあったのである。
「おサヨ、神側の相談が決まったのじゃがのう。」「やかましい眠らせいや。」「まあよう聞け。嫌じゃと言うても、どうしてもわれ(お前)に、一度は是非とらせにゃならぬものがある。」「何か。」「玉露の玉と、天蓋の瓔珞じゃ。」「いらぬことを言うな。あれは『天皇のも人造ぞ、皇后のも人造ぞ。』と言うたから、『それなら本物を持って行け。』と言うたら、『持って行かせ。』と言うて、水をかぶらしたじゃあないか。」(p.131)

 この玉露の玉と天蓋の瓔珞は初めに101ページに登場し、それぞれ天皇と皇后がその位につくときに受け継ぐものであると説明されている。要するに「肚の神様」は、教祖を天皇陛下に取って代わる位置に立てようとしたのである。いまの天皇は生き神でも現人神でもなく、本来の位置を外れているので、その位置におサヨを立てるのだという意志を「肚の神様」が示したことになる。

 そのような大それたことを言う「肚の神様」とはいったいどんな存在なのかと言えば、それまで伊勢神宮にいた神が、そこを去っておサヨの肚に宿るようになったという。言うまでもなく、伊勢神宮の祭神は天照大神である。皇祖神である神が伊勢神宮を去って、おサヨの肚に宿るようになったので、おサヨは天皇に代わって日本の国を治める立場に立つのだと言いたいのである。

 肚の神様は教祖に対し、「二千六百五年の昔から神が天降る所を、ちゃんと決めていたんじゃ。蛆の祭りのお旅所と同じことで、神輿を降ろす所があろうがの、今はおサヨがお旅所なのじゃ。」(p.77)とも語っている。皇紀2605年は西暦で言えば1945年、終戦の年である。すなわち、終戦の時をもって皇祖神の拠り所は天皇陛下から北村サヨ氏に移動することが、昔から予定されていたのだということである。しかし、当のおサヨはそれを断っている。

 それに対する「肚の神様」の反論は、「天皇は世をよう治めんじゃないか」(p.131)ということであり、「蛆の天皇や蛆の皇后」では何の役にも立たず、彼らが三年でも水をかぶって修行したとしても、その汚い肚には入りたくないというのである。かなり天皇皇后を冒涜した内容になっているが、『生書』が出版されたのは戦後なのでおとがめなしである。そして極めつけは、「おサヨ、われは今、急に、にわか神様になったのじゃあない。われに世が末になったら、国救いをやらせようと思うて、生まれついてから鍛えてきてあるのじゃ。」(p.132)といって、これまで百姓仕事で鍛えてきたのは国救いをやらせるためであったと迫るのである。

 これは旧約聖書の預言者の召命の場面と非常によく似ている。預言者エレミヤが召命される場面では、神はエレミヤに対して以下のように語っている。
「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。(エレミヤ書1:5)

 要するに神が予定したのだから成就しなければならないということであり、問答無用である。預言者は最後は召命を受け入れなければならない。大神様の場合には、肚の神様からの提案で、三年半の期限付きで、終わったら元の百姓の女房に戻すという条件でその役割を受け入れることになったのである。そのくだりは以下のようなものだ。
「『・・・おサヨがどうでもとるのが嫌なら、三年半にわたって国救い舞をやって、世が治まったら、それを天皇や皇后のところへ持って行ってやってくれ。その時、天皇や皇后は、私らはよう治めだったのじゃから、たいがたいけえ譲ろうと言うし、おサヨはいらないと言うて、押し合い、へし合いするとこを、新聞に出さしてやろう。』

 それで教祖は肚の神に問われた。『それが済んで、国が治まったら、また元の百姓の女房に戻してくれるか。』

 肚の神は、力を入れて答えられるのであった。
『そこじゃ、そこじゃ、人間は偉い者になってしもうたらおしまいじゃ。蛆虫世界じゃあ、上がったら、さがることを知らぬ。神の国は上がったり下がったりが、自由自在にきくようになって、地位も名誉もいらぬ。尊いお国が一本立ちになって、世界の平和が来た暁には、いつ枕を並べて死んでも惜しくない裸役者でなかったら、天が娶って使やせぬ。玉露の玉とは、極めて労した玉だ。天蓋の瓔珞とは、天よりほかにない世楽をつくるのじゃ。』

 かくしていよいよ三年半の、命をかけての国救いが始められるのである。」(p.132-3)

 三年半の期限付きとはいえ、このやりとりは大神様が天皇皇后に代わって日本の国に責任を持つという自分自身の使命を正式に受け入れたという点において、重要な意味を持つものと思われる。これらのやりとりから、大神様が偉くなりたいとか権力が欲しいという動機ではなく、乱れている世を神の願いの通りに治めるという公的な使命のために自分の位置を受け入れたことが分かる。私心がなかったということだが、終わったら元の百姓の女房に戻りたいという大神様の言葉は、肚の神様を感心させたようだ。謙虚さをもって美徳とするこの部分は、新約聖書の以下の記述を思われる。
「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。」(マタイによる福音書20:25-28)

 この言葉は、ゼベダイの子らの母がイエスに対して「わたしのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」と言ったことにより、弟子たちの間で誰が偉いか論争になったときにイエスが語った言葉である。イエスの弟子たちもまた、地位や名誉や権力を求めていた。しかしイエスは、偉くなりたいと思えば人に仕えなければならないと教えたのである。

 以上で「第五章 救世主の自覚と神の国の予言」の部分は終わる。次回から、「第六章 終戦と大神様」に入る。

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