『生書』を読む19


第六章 終戦と大神様

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第19回目である。先回で「第五章 救世主の自覚と神の国の予言」の内容を解説し終えたので、今回から「第六章 終戦と大神様」の内容に入る。第六章は、昭和20年春の戦局の解説から始まる。イタリアのムッソリーニの死、ヒトラーの死に続くドイツの無条件降伏によってヨーロッパでの戦争は終結し、日本は孤立無援となり、沖縄戦も6月には終結した。このように戦局が最後の段階へと突入すると、「神様の御行も戦局と同調して、最後の仕上げへと進まれたのである。」(p.138)と『生書』には記されている。かつて肚の神様が教祖に対して「二千六百五年の昔から神が天降る所を、ちゃんと決めていたんじゃ。蛆の祭りのお旅所と同じことで、神輿を降ろす所があろうがの、今はおサヨがお旅所なのじゃ。」(p.77)と語ったように、天照皇大神宮教においては、終戦の時をもって皇祖神の拠り所が天皇陛下から北村サヨ氏に移動することが予定調和的に理解されているので、終戦が近づくと同時に神の摂理も急ピッチで進むようになるのである。

 昭和20年7月22日に、教祖は自宅で初の説法をなさった。この日は天照皇大神宮教においては大切な記念日となっている。それを聞きに集まった人々の人数は40~50名ほどであったという。説法のスタイルは踊りながら歌う「歌説法」と呼ばれるもので、言葉遊びのような数え歌で教えを説いていった。このように大衆に分かりやすい方法で教えを説く大神様には、エンターテイナーとしての素質があったようだ。自分のことを「おんなヤクザ」と呼び、神の摂理のことを「神芝居」と呼んだくらいであるから、そのような自覚があったものと思われる。次の言葉も、芝居をテーマにした比喩である。
「おサヨは世界を舞台にして国救いをやらせるんじゃが、田布施が楽屋ぐらいではちと狭いんじゃが、あまりよそへ行って稽古をしたら、本物の気違いと間違われるから、今まで田布施を楽屋にして稽古したが、今からは世界へ乗り出すのじゃ。」(p.140)

 どうやら終戦前に田布施で起こったことは、終戦を契機に世界を舞台として本格的な芝居をする前の、楽屋での稽古みたいなものとして位置づけられているようだ。大神様のカリスマは相当なものだったようで、「皆の者はいつとはなしにひきつけられ、浮世のことなど忘れ果ててしまい、一心に聞き入るのであった。」(p.140)ということであった。

 大神様の説法のスタイルは、聞く人一人ひとりの欠点を言い当て、「業晒し」をするというものであった。誰にも知られていないはずの自分の罪や欠点を、教祖が見事に見抜いて断罪する姿を通して、「この人は自分のすべてをお見通しだ」と感じて屈服するというパターンである。普通は悪口を言ったりどやしつけたりすれば嫌われるものだが、逆に魅了してしまうところが教祖のカリスマなのであろう。大神様もまた、そのようなカリスマの持ち主であったと思われる。

 ところが、そのようなカリスマを持つ教祖と出会ったとしても、必ずしもすべての人が神行の道に入ったわけではないようだ。それは以下のような記述からもうかがえる。
「だが教祖の説法が、自分たちの生活とはあまりにもかけ離れた世界のことのように感じられ、直ちに現実の世界を一新して神行するような殊勝な気持ちになる人は、ほとんどなかったのである。」(p.141-2)

 このような教祖の説法とそれを受け止める世俗の人々の関係は、キリスト教の『聖書』にも通じる内容である。教祖がどんなにすばらしいことを語っても、また一時的に教祖の言葉に感動したり敬服したりしても、その後その人が継続的な信仰を持つとは限らないのである。むしろ、深い信仰を持つ人の方が珍しいくらいである。キリスト教の『聖書』では、神の御言葉を「種」にたとえ、それを聞く人々を「土地」にたとえてこのことを説明している。
「その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、『見よ、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞くがよい』。」(マタイ13:1-9)

 このたとえの意味をイエスは以下のように説明している。
「そこで、種まきの譬を聞きなさい。だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。(マタイ13:18-23)

 天照皇大神宮教においても、いよいよ終戦が近くなって大神様が説法という「種まき」を始められるのであるが、その種が実を結ぶには相応しい「土地」が必要であり、それは神によって準備された人であるという世界観には、キリスト教と相通じるものがある。

 教祖が説法を開始した7月22日から終戦の日までの間に、教祖の周りには不思議な出来事が起こっている。そのうちの一つが徳山市に対する米軍の空爆の予言である。そこには本城夫人という信者が住んでいたのだが、大神様はその家を訪問する前に、「それまでに、徳山の蛆の掃除に、機銃掃射と小型爆弾と焼夷弾を持って行くけえ、皆にそう言うちょいてくれ」(p.144)と言ったのである。本城夫人はその言葉を冗談かと思ったのだが、7月26日の夜半に本当に大規模な空襲があったのである。「徳山市は一瞬にして炎の海と化し、焦熱地獄を現出した。全市の大半は灰燼に帰し、おびただしい死傷者が至る所に横たわり、文字どおり死の街となった。」(p.144)と『生書』には記されている。

 しかし、本城家は焼夷弾を何発も受けながらも、不思議にみな不発に終わり、助かったという。本城夫人はそのことにより改めて教祖に感謝した。空襲の翌日であったにもかかわらず、大神様は徳山市の本城宅を訪ねてきた。そして本城家の背負っている因縁の話をしたり、軍人として出征している息子たちが無事に帰ってくることを予言したりして、本城夫人を驚かせたのである。こうしたストーリーには、教祖がただならぬ人であり、未来を見通せる人であることを証しする効果がある。

 こうして徳山に神の種がまかれたことを記した後、『生書』は再び戦局の解説に移る。この辺にも、終戦に至る客観的な歴史のプロセスと大神様を中心とする神の歴史のプロセスが同時並行的に進んでいるという理解が表れている。人間の歴史と神の歴史は予定調和に従って進んでいくのである。ポツダム宣言、広島への原爆投下、長崎への原爆投下、そしてソ連の対日宣戦布告により、日本の情勢はもはや絶望的になる。こうした出来事を簡潔に記した後に、「生書」は人間の歴史と神の歴史が一つに交わる時が迫ってきたことを告げる。
「八月十日、日本政府は御前会議の結果、降伏を決定、ポツダム宣言の条項に基づいて連合国に和を請うた。かくて八年の戦いの最後の日が近づくにしたがって、神は神の国を建設せんがため、その指導者たる教祖に、最後の仕上げをされるのであった。」「八月八日のことである。純白の新しい服を縫わせ、また新しい布団を一重ね作らせ、『十一日の夜はそれを着て、神棚の前に一人で寝よ。』と命ぜられる。十日には例の下痢が始まって、『今度は娘腹を下して、天人の二十五歳になるのだ。』と言われる」(p.150)

 教祖が純白の新しい服を着るのは、新しい時代の幕開けに備えるという意味であり、下痢をするのは、過去の清算の意味があると思われる。ちょうど終戦が決定的になろうとするときに、肚の神様も教祖に対してそのための準備を命じていることになる。こうして終戦の直前、8月11日の夜に、教祖は決定的な啓示を受け、強烈な神体験をするのである。その詳しい内容については次回扱うことにする。

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