『生書』を読む17


第五章 救世主の自覚と神の国の予言の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第17回目である。第12回から「第五章 救世主の自覚と神の国の予言」の内容に入った。ここから「肚の神様」の本心が前面に出てきて、それまでは普通の愛国的な婦人に過ぎなかった北村サヨ氏が、自分では思いもよらないようなことを語り出すようになる。それまでの戦争肯定の姿勢から、無駄な戦争をやめよというメッセージに変わり、皇国日本の価値を信じる立場から、現在の天皇を中心とする国体イデオロギーの否定に変わったのである。

 ここで『生書』が記述する時代は昭和20年3月に至る。沖縄戦の開始、特攻隊の出陣、小磯内閣の総辞職などの出来事が記され、いよいよ太平洋戦争も末期になってきたころだ。既にB29は毎日のように日本の都市を爆撃していた。その頃の教祖の言葉が興味深い。ある人が教祖に「あの敵の飛行機を祈り落してください」と頼んだときの答えである。
「ばあか言うな、おれは御苦労様と拝んでいるのじゃ。根の国に蛆がわいたというて、やすい思いじゃ来てくれぬのじゃ。米国がなんぼう物資があるからというて、蛆がわいて困るから、蛆掃除に来てくれと言って頼んだんじゃあ、来てくれはせん。頼まんでも命がけできてくれるのじゃから、みんなも拝めよ。」(p.122)

 ここではアメリカの爆撃機は憎き敵ではなく、日本の蛆掃除に来てくれるありがたい存在としてとらえられている。かつて大神様が「天にはえこもひいきもありゃしない。神の肚に合わぬ者が神の敵じゃ」と言ったように、日本が常に神の側にあるのではなく、米国の爆撃機に神が働くこともあるということである。いまの日本は神の敵となり、多くの蛆がわいているので、それを掃除するためにわざわざ米軍の爆撃機がやってきて懲らしめようとしている、ということなのである。

 このように敵を通して神が働くという発想は、実はユダヤ・キリスト教の『聖書』にも存在する。旧約聖書の預言者たちは、イスラエルの王や民が常に神の側にいるとは考えなかった。彼らが神の律法に背き、道を誤るときには、主は敵の手に彼らを渡してその罪を悔い改めさせる、という趣旨のことを預言者たちは繰り返し語っているのである。『原理講論』は、このような神の働き方のことを「外的粛清」と呼んでいる。初めに神は人々の良心に働き掛け、み言葉をもって悔い改めに導こうとするのであるが、それでも人間が悟らない場合には、外敵が民族や教会を襲い、悲惨な目に遭わせることによって自らの非を悟らせようとするのである。旧約時代にはアッシリアによるイスラエルの滅亡、ユダヤ民族のバビロニアでの捕虜生活などがそれにあたり、キリスト教史においては十字軍戦争によってローマ教皇庁の権威が地に落ちたことや、ローマ教皇のアヴィニョン捕囚(1309年~1377年)などがその例として挙げられている。

 この頃の出来事として『生書』に記されている大神様の物語は、どこか『聖書』におけるイエス・キリストと聴衆のやり取りに似ている。『生書』によれば、「その頃、人が集まれば、戦争の見通しの話ばかりである。米軍が日本の本土に上がって来たら、どうなるだろうかということが、当時の日本人の頭を占めていた」(p.123)というのである。教祖はそうした人々の心配をよそに、「そんな、ちっぽけなことを考えるより、まず真人間になれ」(p.123)と答えたのである。これに類似するパターンとしては、キリスト教の『聖書』のルカによる福音書には、次のような話が出てくる。
「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカ17:20-21)

 この記述は、当時のパリサイ人は「神の国」が外的な目に見える形、すなわち天変地異が起こるとか、ユダヤに強力な王が現れて外国の勢力を駆逐し、かつての栄光を取り戻すといったような客観的な出来事としてやってくると思っていたことを表している。そしてイエスに対して未来を予言するという意味での「予言者」の役割を期待し、それがいつ来るのかを尋ねたのである。しかしイエスは、彼らの視点そのものが間違っていることを指摘し、自分の内面に目を向けるように言ったのである。

 世俗の人々は常に、外的・客観的な世界において次に何が起こるかに関心がある。それは自分自身の損得と結びついているから、他人より早くそれを知ろうとして、教祖や霊能者に対して「未来はどうなるのか?」と尋ねる。しかし、それに対して教祖は明確な答えを示さない。それは彼らが自己中心的な損得勘定に縛られている限りは救われることはないからである。それに対する教祖の答えは、「そんなことを心配するよりも、自分の内面を見つめ、自分を変えなければならない」というものであった。これはあくまで現世利益を追求する人にとっては「論点外し」であり、質問にまともに答えていないことになる。だから、結局この人には未来は分からないのだと思って教祖のもとを去っていく。しかし、より本質的な人は教祖の言葉を聞いて、大切なのは未来を知ることよりも自分自身を変えることなのだと悟るのである。大神様の言葉とイエス・キリストに言葉には、このような共通点があるのである。

 こうした世俗の人々の期待は、『生書』に登場する「町田夫人」が大神様を紹介したくだりにも表れている。彼女はこう言ったのである。
「その人は肚の中に指導神が宿られ、神のなさるがままになっているというお方で、不思議に何でも未来のことがわかる、おもしろい方なのですよ。」(p.123-4)

 そのように紹介されるので、「当時のこととて、戦争の将来、明日にも爆撃の危険にさらされている家庭や、自分自身のことについて、少しでも安心が得たいと、教祖のお話に期待して集まってきた連中である。しかし、教祖の本質はまだ知らず、神憑りぐらいにしか考えていなかった。」(p.125)と記述されている。

 案の定、大神様の集会に集まった人々が一番聞きたがっていたのは、戦争の結果がどうなるかということであった。それに対する答えは以下のようなものであった。
「教祖は『必ず勝つ。じゃが、敵は日本全国、どこにでも上がるぞ。』と言われて、突然お歌説法となった。
『持って来い、持って来い爆弾を、世根の蛆の皆殺し――。八年間の戦いも、真人間欲しさに天がやらかした戦いじゃが、なんの真人間になるものか。利己、利己、利己の国賊乞食が世に増えて、真心持ちほどばかを見る、思うた時代は早済んだ――。』(p.127)

 必ず勝つと言っておきながら、敵が日本全土に上陸するというのは明らかな矛盾である。しかしながら、聴衆はあっけに取られて、その矛盾を指摘したり質問したりすることなく、ただ聞いていたというのである。

 現代の視点から教祖の言葉を解釈すれば、「日本が勝つ」というのは戦争に勝つという意味ではなく、戦争に負け、米軍に占領されることによって人々が真人間になるのであれば、結果的に日本の国は神の眼から見れば「勝った」ことになるということだ。この戦争に日本が負けることは、最初から決まっていたわけではなかった。戦争を通じて日本人が真人間になる道もあったかもしれないが、実際には利己的な人間が増え、神の敵となったので、戦争に負けることによって日本が生まれ変わる道が開けるということなのであろう。結局、勝ち負けは真人間になるかどうかによって決まるのである。
「私の家に爆弾を落とさないようにしてください。疎開してはいかがでしょうか。」という問いかけに対しても、大神様は以下のように答えている。
「心がまっすぐなら、どこにおっても大丈夫。心が曲がっておれば、防空壕の中でもだめじゃ。まず真人間になりなされ。

 真人間とは、口と心と行いと、三つが一つになり、かつがつ人間の型にはまる、それを毎日、我が良心で磨いてゆく時、初めて真人間になる。

 人間の道をまっすぐに行けば、すぐに神や仏の世界、神や仏の世界に、爆弾の落ちるような世界をつくった覚えが天にない。我おる所、即ち天国浄土なり、というところまで、魂を磨いて上がってこい。」(p.128)

 爆弾が自分の家に落ちないようにというのは、自分の身の安全だけを考えた世俗的な欲求である。それを逆手にとって、身の安全が欲しければ魂を磨いて真人間になれと、教祖は視点の転換を要求する。この会話も同じパターンである。

 私見としては、大神様はこのころすでに、日本が戦争に負けることを予想していたのではないかと思う。しかし、そのことをあからさまに表現することはできなかったので、論点を外しつつ、終戦後の日本人の魂の再生のための準備をしていたのではないだろうか。

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