書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』193


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第193回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国で暮らす日本人の統一教会信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。前回から「五 A郡・B市・ソウルの信者達」の内容に入った。中西氏は農村のA郡、ソウル近郊のB市、ソウルの中心部の三か所に在住する日本人信者を比較して、「信者であることが農村部では顕在化し、都市部では潜在化するということになる。顕在化、潜在化によって信者としての日常生活は異なり、顕在化のA郡であれば、毎日が統一教会の看板を背負っているようなものである。…B市やソウルの信者と比べるとA郡のような農村の日本人女性信者は日常生活と信仰生活が一体化している。潜在化のB市やソウルでは仕事に差し支えないように日常では隠さねばならず、多少の緊張感をもって暮らすようになる」(p.512)と結論している。ここまでは自ら行った調査に基づく客観的な分析であるが、それに続いて彼女自身の主観的な考察を「3 日本と異なる信仰のあり方」という項目を立てて論じている。この部分は極めて問題が多いので、今回特に取り上げて扱うことにする。

 中西氏はこれまでの記述をまとめる意味で、冒頭に「第八章、九章を通じての問題は、脱会者になるか、信仰を保ち続けて信者であり続けるかの違いはどこにあるのかであった。」(p.513)と述べている。この問題意識は、第八章の冒頭で中西氏が以下のように述べているように、彼女の研究の基本的な問いかけであった。
「第六章、七章は信仰をやめて統一教会を脱会した元信者たちが調査対象だったのに対し、第八章から一〇章は信仰を続ける現役信者が対象である。脱会する信者がいる一方で、現役信者が信仰を保ち続けていられるのはなぜかが問題となる。」(p.403)

 そもそもこの書き方には、普通の人であれば統一教会を脱会して当然であるにもかかわらず、現役信者として信じている奇特な人々がいる。どうして信じ続けることができるのか、その理由を解明しなければならないというニュアンスが込められている。普通の宗教団体に対しては、このような書き方はしないであろう。「現役信者として信仰を保ち続けている者たちがいる一方で、脱会する信者がいるのはなぜかが問題となる。」と書くのが普通である。現存する宗教団体に現役信者がいるのは「当たり前」である。その中で、信仰を続けられなくなる人が出てくるのであって、その事情を分析することを通して、人が信仰を棄てる理由について考察するのが通常のアプローチであろう。しかしここでは、やめるのが当たり前であるのに、統一教会のような宗教をどうして信じることができるのか、というバイアスがかかった表現になってしまっているのである。このような問題意識のゆえに中西の分析は、「脱会しないのはなぜか?」という理由を探すという奇妙な論理になってしまっている。通常の思考であれば、「脱会するのはなぜか?」を問わなければならないにもかかわらずである。

 中西氏は一つ目の理由として、調査対象者の中には脱会カウンセリングを受けたものがいなかったことをあげている。これは逆に、櫻井氏の調査対象となった元信者のほとんどが、脱会カウンセリングを受けていたということを示している。このことは櫻井氏自身が認めているのだが、こうした経験をした人々の数は、統一教会信者の数全体に比べれば少数派であり、統一教会を脱会する人の中に占める割合においても少数派である。つまり、脱会カウンセリングによって教会を去るというのは特殊ケースであり、「外れ値」なのであって、それを基本に統一教会の信仰について普遍的な発言をすることはできない。言い換えれば、統一教会を離れる人の大多数は、拉致監禁を伴うや強制改宗や脱会カウンセリングを受けた者たちではなく、自由意思によって離れる者たちである。彼らが信仰を辞める理由こそが脱会の本質的理由なのであって、特殊なカウンセリングを受けた人々が離れるのは、「特殊な理由」によるものであるということになる。中西氏の理由付けは、脱会カウンセリングによって離教した櫻井氏の調査対象と比較したときにのみ言えることであって、脱会者と信仰を続ける者の差異を普遍的・本質的に分析したことにはならない。

 中西氏の上げる第二の理由は渡韓後の生活である。
「調査対象者達の生活は女性の場合経済的に楽ではないが、何とか無難に暮らしており、生活を破綻させるような状況になっていなかった。このことが信仰を続けている直接的な理由であろう。」
「韓国における信仰生活自体も、日本とは異なっており、心身をすり減らすようなものではない。家庭を築き、日曜日に礼拝に出席し、何かの行事には出かけて行く程度である。献金のノルマも日本のように厳しくない。・・・特に農村では統一教会が結婚相談所のように受けとめられ、嫁いだ日本人女性信者達が信者であることも自明視されている。彼女達は結婚難の農村に嫁いできてくれた存在として地域に受け入れられている。・・・韓国は日本人信者にとっては暮らしやすい環境にある。在韓の日本人信者が信仰を維持している背景には、韓国社会で統一教会が社会問題化していないという点もあるだろう。」(以上、いずれもp.513)

 ここで中西氏の「普通な韓国統一教会」と「異常な日本統一教会」、あるいは「ゆるい韓国統一教会」と「強烈な日本統一教会」というというステレオタイプ的な枠組みが再登場する。繰り返して言うが、中西氏の頭の中にある日本統一教会のイメージは、櫻井氏から提供された大量の文献と、櫻井氏自身の記述によって作り出された「虚像」である。

 中西氏は韓国の統一教会を日本の統一教会と比較して結論を下しているつもりになっているが、実際には論理的に破綻したことを言っていることに気付いていない。そもそも、日本での信仰生活が心身をすり減らすようなものであるのに対して、韓国ではそうではないから彼女たちが脱会せずに信仰を続けていられるのだとすれば、日本の統一教会信者たちがなぜそのような信仰生活を継続していられるのかが説明できない。私の信仰暦は現時点で37年になろうとしているが、私以上に長く信仰している日本人の信者は多数いる。本当に心身をすり減らすような信仰生活をしているのなら、日本においてはそんなに長く信仰を継続できないはずである。中西氏は日本の信仰生活を実際に観察したことがないので、「虚像」に基づいたイメージだけで推論しているにすぎないのである。

 実際には、日本における統一教会の信仰生活も心身をすり減らすようなものではない。櫻井氏自身が認めているように、「楽しくなければ続けられない」(p.342)のである。さらに日本の統一教会信者の生活も韓国と同様に、破綻するような状態にはなっていない。日本の統一教会信者の実際の生活は、櫻井氏が描写した脱会者たちの生活よりもずっと多様である。教会員の中には医者も、弁護士も、大学教授も、会社の役員もおり、地方議員や地方自治体の首長を務めている者もいる。特に社会的な地位の高い者でなかったとしても、普通の会社員、公務員、自営業者、あるいは主婦として社会生活を送っている者が大多数である。日本でも大部分の信者が無難に暮らしているとすれば、渡韓した女性たちが信仰を続けていられる理由として、特にそのことをあげる意味はなくなってしまう。

 そもそも信仰とは、無難に暮らしているからとか、暮らしやすいから続けられるというようなものではない。宗教の歴史をひもとけば、迫害の中でも信仰が力強く燃え盛った事例は数えきれないほどあるし、迫害によって逆に信仰が強化されたことさえある。逆に、江戸時代の仏教や中世ヨーロッパのカトリックのように、権力と一体化して優遇されてしまうと信仰が形骸化してしまうということもある。楽だから、暮らしやすい環境だから、社会から受け入れられているから信仰を維持できるという中西氏の論法は、こうした信仰の本質を見落としていると言えるだろう。

 驚いたのは、在韓の日本人信者は無難に暮らしているから信仰を維持できているという主張をした後で、中西氏がそれをひっくり返すような奇妙な議論を展開している点だ。
「しかし、祝福で結婚し、韓国で家庭を築き、無難に暮らしているとしても、統一教会の信仰が特異なものであることには変わりない。アダム、エバの堕落した血統が連綿と受け継がれ、神の血統への転換が唯一祝福であるとする。韓国とアダム国家、日本をエバ国家と規定し、日本が韓国に贖罪すべきとして、祝福で結婚難にある農村男性のもとへ日本人女性信者を嫁がせる。家庭を築くことで、信者は人生全てを教団組織に絡め取られるという他の新宗教には類を見ない特殊な信仰となっている。」(p.514)

 日本人女性が韓国で無難に暮らしているなら、それでよかろうと言いたくなるのだが、それでは批判したことにならず、統一教会を利する記述になってしまうことを心配したのか、取ってつけたように宗教的言説を批判してみたり、「特異な信仰」という根拠不明の主観的価値判断を押し付けたりしている。結果的に、特異な信仰を持った人が無難な生活をしているという、ちぐはぐな主張になってしまっているのだ。自分の書いた文章に統一教会反対派が文句をつけないための「忖度」によって、論理的な破綻をきたしてしまったとしか思えない。このまとめの部分における中西氏の主張は、まさにブレまくっていると言ってよいだろう。

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