書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』182


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第182回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第177回から「三 現役信者の信仰生活――A郡の信者を中心に」の内容に入った。これは中西氏のフィールドワークによる調査結果を紹介したものであり、彼女の研究の中では最も具体的でリアリティーのある部分だ。今回はその続きで、水曜日の礼拝、祈祷会や敬礼式、その他の行事や信仰生活に関わることを扱うが、その内容は韓国在住の日本人女性信者の極めて人間的な一面が現れたものである。

 まず、「水曜日の午前中に日本人女性だけの水曜礼拝がある(午前10時30分から12時くらい)。韓国プロテスタント教会は水曜日の午後七時頃から祈祷会を行うところがあり、A教会でも本来は夜に行うものだが、日本人女性達が夜に家を出にくいので、牧師の呼びかけで昼間に集まることになった。」(p.480)という紹介がなされている。先回の献金に関する記述とも共通するが、日本人女性たちは信仰生活と家庭での主婦としての立場に相克がある場合には、一方的に信仰や教会の事情を優先するのではなく、両者のバランスを取りながら現実的で合理的な判断をしていることが分かる。そしてこの場合には、牧師の方から女性たちの事情に歩み寄って時間帯を変更するという柔軟な対応をしていることが分かる。

 この集会が彼女たちにとって持つ意味について、中西氏は以下のように解説している。
「礼拝後は食事を取って雑談となるが、日本人女性達にとって情報交換やストレス解消の場になっている。日曜日だと夫や子供がいて落ち着かず、日本人ばかりでかたまってずっと話をするわけにもいかないが、水曜礼拝は日本人女性だけで気兼ねがない。子連れでもオリニチプ(保育園)にあがる前の乳幼児であり、機嫌さえよければおとなしくしている。礼拝は韓国語でも、礼拝、食事が終わると牧師は自室に引っ込む。日本人女性だけになると日本語だけの世界になり、シオモニや夫のこと、子供の学校のことなど話は尽きない。水曜礼拝の集まりを『ストレス解消。悩みを聞き、聞いてもらってアドバイスを受けて、家に帰って頑張る』と語る女性もいた。彼女達にとって何よりもストレス解消は女性同士、日本語でしゃべることである。」(p.480)

 ここには、かなりリアルな女性信者たちの姿が描かれている。異国の地に嫁に来て、家庭の中では多くのストレスを抱えているであろう彼女達が、気心の知れた仲間たちと母国語で会話ができる時間が元気の源となっているということである。すなわち、彼女たちが教会に集まるのは「神と我」という縦の関係や、宗教的な世界だけでなく、人間同士の横のつながりにも魅力を感じているからであり、「日本人女性コミュニティー」を心の拠り所としているからであると理解できる。これは一種の「ピア・カウンセリング」のような機能を教会が果たしているということである。

 しかし、これは在韓日本人女性信者に限ったことではなく、日本の統一教会にも同様の機能があり、さらには宗教団体が一般的に持っている機能であると言える。本書の中で、原理研究会のメンバーであった元信者Cは、自身の信仰生活を青春ドラマの一コマのような熱い思い出として語っている。それは麻薬に近いような楽しい体験であり、家族のような雰囲気の中で、同士のような愛情で満たされ、お互いのことを真剣に語り合う濃密な人間関係であったと述懐している。これは櫻井氏自身も認めていることであり、「原理研究会主催のセミナーを『修学旅行の夜』と評した塩谷政憲の研究(塩谷 1986)にも通じるものだが、これが統一教会における信仰生活の一側面を示していることは事実である。楽しくなければ続けられない。」(p.342)と述べているくらいである。こうしたコミュニティーとしての宗教団体の魅力は、青年集団に限らず、主婦のグループであっても機能するということだ。むしろ、日本の新宗教のほとんどは悩みを語り合う主婦のコミュニティーとして機能していると言えるだろう。

 中西氏は次のようにも述べている。「以上が普段の信仰生活だが、彼女達は礼拝以外にしばしば教会に出向く。…日本人女性信者に教会の用事を押し付けているのではなく、教会の中で彼女達が主婦であったり、年齢的に最も元気であったりして動きやすい一群となっているからである。彼女達がいなかったら教会はたちまち立ち行かなくなるのではないかとさえ思う。用事をしながらみなで日本語でしゃべることで彼女達にとっても気晴らしになっているようであった。」(p.482)

 このことから分かるのは、韓国の統一教会は日本人女性信者に対して強制的に仕事をさせたり、教会に来させているのではないということだ。むしろ教会に来ることは彼女たちの生き甲斐であり、楽しみであり、気晴らしでもあるのだ。こうした教会の機能は日本でも同じである。日本の統一教会でも昼の時間に教会に集まってくるのは家庭をもった婦人たちであることが多い。男性は昼間は仕事をしているので集まりにくく、独身で仕事を持っている若い女性も集まりにくいので、比較的昼間に時間を取りやすい主婦たちが活動の主要な戦力となっているのである。彼女達がいなかったら教会はたちまち立ち行かなくなるという点は、日本でもまったく同じである。

 彼女たちは信仰を動機として、教会の活動を生き甲斐としていると同時に、夫のことや子供のことなどの悩みを話し合い、励ましあうことによって自らを元気づけているのである。韓国と同様に、日本でも女性たちは強制されて教会に集まってくるのではなく、自らの意思で通ってくるのだ。彼女たちはそこに自分の「居場所」を見出し、その活動に自分の存在の意義と価値を見出している。それは「洗脳」や「マインド・コントロール」といった表現からは程遠い、自発的で喜びを動機とした信仰のあり方である。そしてそれは、統一教会に限らず、宗教団体の一般的な機能であると言えるだろう。

 続いて中西氏は、月末の徹夜祈祷会と敬礼式を紹介している。「徹夜祈祷会は韓国プロテスタント教会で行われているものであり、金曜日の夜に行う場合が多い。『徹夜』といっても深夜に及ぶだけで、夜を徹して朝までするわけではない。」と解説した上で、「敬礼式の部分を除けば日曜日の礼拝とあまり変わらない」(p.481)と説明が加えられている。その上で「日本人女性信者の普段の信仰生活は、日曜と水曜の礼拝、月末の徹夜祈祷会と月初めの敬礼式ぐらいである。礼拝の内容に多少違いがあっても、基本的なあり方は、週単位、月単位で行われる礼拝や儀礼に参加するだけであり、一般的なクリスチャンの信仰生活とあまり変わらない。信者が多い地域では毎週金曜日に先輩家庭が区域長になり区域礼拝を行うところもあるようだが、これも韓国では規模の大きいプロテスタント教会で行われていることである。」(p.482)と述べている。ここでも韓国の統一教会は一般のプロテスタント教会と大差ないという、中西氏の一貫した分析がなされている。

 続いて中西氏は、普段の信仰生活以外の「特別な行事」について説明する。その具体的内容は、「真の父母様誕辰記念式」「世界平和のためのA邑指導者決意大会」「天一国国民入籍修練会」「平和統一指導者A郡セミナー」「文鮮明総裁米寿記念及び平和統一指導者創立一周年平和講演会」(p.483)などの行事であり、こうした行事に日本人女性たちが駆り出されるというのである。

 このうち、「世界平和のためのA邑指導者決意大会」では、集会前に役所や警察署、地元のキリスト教会に統一教会が挨拶に出向いていることに中西氏は奇異な印象を抱いたという。それは日本の統一教会が社会から批判され孤立しているとのイメージと比較したものだが、韓国では統一教会は一定程度社会的認知を得ているのであるから不思議でもないのだろうという結論に至っている。

 中西氏は「清海ガーデン」で行われた「天一国国民入籍修練会」にも参加したようである。「修練会」というからには、「洗脳」や「マインド・コントロール」といった表現から連想されるような強烈で特異な雰囲気のものかと思えば、「ノートを取る人はほとんどいなかった。床に座らせて講義を行うのだから、居眠りする人、途中で部屋を出て行く人などもおり、緊張感は全くなかった。修練会といっても統一教会の教説を教える教化プログラムとはいいがたい」(p.483)と述べている。中西氏は韓国統一教会の「ゆるさ」に拍子抜けしているようだが、それも強烈な日本の統一教会のイメージを前提としているからである。果たしてそれほどの差異が実際にあるものなのかをより実証的に論じるには、やはり日本統一教会の修練会にも参加して、両者を実体験に基づいて比較するべきであった。日本と韓国の統一教会、ならびに修練会のあり方に、全く文化的な差異がないと私は言っているのではない。それがどの程度の差異であるかを正確に知るには、日韓両国でフィールドワークをするのが正統的なやり方だということだ。しかし、彼女はそれをしていない。ここでも中西氏は「ゆるい韓国統一教会」という実像と、「強烈な日本統一教会」という虚像を比較していることになる。

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