書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』163


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第163回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されているが、最初に中西氏は調査対象となった在韓日本人信者の基本的属性をデータで示している。先回から入信の経緯に関わるデータについて、櫻井氏のデータと比較しながら考察を開始した。今回はその続きであるが、初めに入信から献身までの年数を比較する。櫻井氏も中西氏も統一教会への献身を前提として調査を行っているが、既に説明したように、彼らが宗教法人である統一教会に献身した事実も、雇用関係にあった事実もなかった。彼らが「献身」したと認識していたのは実際には「全国しあわせサークル連絡協議会」であるが、以下の説明ではそうした前提で「献身」という言葉を用いることにする。

入信から献身までの年数比較

 櫻井氏と中西氏ではデータのとり方の細かさに若干の違いがあるものの、大半が入信してから2~3年の間に献身しているという点では共通している。これに関して、櫻井氏は「入信から献身を決意するまでの期間を見ると、これは数ヶ月から一年間、複数年まで散らばりがある」(p.212)と評価しているのに対して、中西氏は「入信して短期間のうちに献身に移行している」(p.455)と評価したうえで、入信から献身まで15年かかった者は例外的な事例であると言い切っている。しかし、統一教会ではこのケースのようにいったん離れてから再び教会につながる「再復帰」と呼ばれる現象はよくあるのであり、決して例外的な事例であるとは言えない。現実に存在するばらつきを無視して、「例外」として切って捨てる態度は、社会学者としてはいがかなものであろうか。

 実際には、ばらつき具合は櫻井氏のデータでも中西氏のデータでも似たようなものであり、誰もが同じように短期間で献身するものではなく、個人の決意や事情によって短くなったり長くなったりするのである。このように同じ現象に対する評価が櫻井氏と中西氏の間で分かれているということは、こうした期間が長いか短いかという判断がそもそも客観的なものではなく、主観的なものであることの表れであろう。宗教的回心や献身を決意するのに要する時間に「適切な長さ」というものが客観的に存在するわけではないからだ。

 それよりも櫻井氏のグラフと中西氏のグラフを比較すると興味深い事実が発見できる。櫻井氏のグラフを見ると、入信から2~3年の間にほとんどが献身し、残りも6年以内には献身するかのように描かれている。しかし、それらの数字を合計しても37人にしかならず、調査対象の総数である66名に及ばない。その差は29名であり、彼らは献身しなかったというのが事実である。これを櫻井氏は、「献身する前に脱会した信者がいるので、総数は調査対象者の六六名になってない」(p.212)といってごまかしているが、これはもし彼らが脱会していなかったら献身していたはずだという根拠なき前提に基づくものである。実際には、入信しても献身せずに勤労青年として信仰を続け、そのまま祝福を受ける者も多数いるのであるから、献身しなかった者が29名(43%)もいたという事実はグラフの中にきちんと表示すべきである。これを櫻井がしなかった理由は、彼が示したグラフの最高値が12名であるため、その2倍以上になる29名という数字を棒グラフで示してしまえば、「献身しない人がこんなにたくさんいるんだ」という印象を読者に与えてしまうことを恐れたためであると思われる。そこで櫻井氏は、この棒グラフを消去するという印象操作を行ったのである。

 一方で、中西氏のグラフはこの点でもっと正直だ。調査対象の38名のうち、献身せずに「通教」だった者の人数が16名(42%)としてグラフ化されており、それはこのグラフの中ではどの値よりも高い数値になっている。奇しくも、伝道されたけれども献身しなかった者の割合は、櫻井氏のデータでも中西氏のデータでもほぼ同じ値となっており、4割以上の者が献身せずに通教あるいは勤労青年の道を選択するという事実が明らかになった。中西氏はこの点について、「入信後もそのまま学業や仕事を続けている通教が一六名であり、不詳を除けば半数が献身している」(p.455)と分析している。献身するかしないかの割合がほぼ半々であるとすれば、その決定は一方的な教化や誘導によってなされるのではなく、個人の事情と自由意思による判断がかなりの割合を占めていると言えるのではないだろうか。すなわち、献身しなくても信仰生活を継続して祝福を受ける道はあることは信徒たちの間では広く認識されており、どちらの道を歩むかは個人の主体的な判断であるということだ。それが事実であるにも関わらず、櫻井氏はそれを「不都合な真実」としてグラフから消去して隠ぺいしようとしたのである。それが皮肉にも中西氏のグラフとの比較によって明らかになってしまったということだ。

 続いて中西氏は、「巻末資料2の脱会信者の一覧表には『物品購入金額』があるが、現役信者にはこの点について聞き取りをしていない。購入したものが大量、高額であったとしても現役信者にとってそれは『被害』ではない。四万九〇〇〇円で買った象牙の印鑑を今でも銀行の通帳を作るときに使っている、壺を実家の神棚の横に置いているというものもいる。」(p.455-6)と述べているが、これは正論である。本人が納得しているのであれば、どんなに高額であっても被害とは言えない。印鑑のように実用性のあるもので、何十年も継続的に使っているのであればそれはなおさらである。問題は、中西氏の述べているような正論が通じない弁護士たちがいることである。彼らはたとえ感謝して買っていてもそれを「被害」と決めつけ、「騙されたんだ」と説得する。本来は元信者であったとしても、購入した時点で感謝して納得しており、クーリングオフ期間を過ぎてから心変わりして価値を感じなくなった場合には、それは被害とは言えず、売った側に賠償の責任はないはずである。にもかかわらず、そうした事実を無視して損害賠償を請求し、裁判でそれが認められてしまうケースがある。そうした現実を背景とすれば、中西の語っている当たり前の正論は評価できる。

 巻末資料2の脱会信者の一覧表に「物品購入金額」があるのは、櫻井氏の調査対象である脱会者が統一教会を相手取って民事訴訟を起こした元信者たちであり、その代理人を務めた弁護士から彼らの情報が提供されたことを物語っている。通常の宗教学の調査では宗教的回心や脱会などの内面に関する情報が収集されるのであり、こうした物品購入に関する情報が詳しく調べられることは稀である。しかし、裁判においてはこうした金額を細かく提示しないと損害賠償を請求できない。このことはむしろ脱会者の情報の特殊性を物語っているのであり、決して中西の調査した現役信者に関する情報が欠けていたということではない。

入信および献身から祝福までの年数

 続いて中西氏は、献身してから祝福を受けるまでの年数と、入信してから祝福を受けるまでの年数を表とグラフで提示している。上記のの表9-4と図9-7(p.457)である。これらの表とグラフを見て言えることは、「ばらつきがあり、一定していない」ということだけである。中西氏はその期間が非常に長くなったケースが例外的な事例であることを様々な理由で説明しようとしているが、それは個人の事情以外の何ものでもない。要するにいつ祝福を受けるかということは個人の事情によって変化するのであり、人によってまちまちであるという事実が明らかになったに過ぎないのである。

 しかしこうした事実は、統一教会ではマインドコントロールが行われており、誰もが判で押したような教化プログラムを通過して信者になり、献身し、祝福を受けていくというベルトコンベアーのようなイメージを描きたい中西氏にとっては不都合だったようで、必死になって長くかかってしまった「例外的な」理由を見出そうとしている。そればかりか、入信してから一年足らずで祝福を受けた二名の事例をわざわざ詳細に記述したうえで、ご丁寧に「入信したら無条件に祝福というような早さである」(p.458)という解説まで加えているのである。現実には早く祝福に至る人もいれば、時間がかかる人もいる。それは人それぞれの個性と事情によるものであり、良し悪しの問題ではない。仮にも社会学者であるならば、中西氏は自己の価値観をデータに読み込まずに、客観的で中立的な分析に徹するべきではないだろうか?

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