書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』205


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第205回目である。

「おわりに」

 第201回から本書全体のまとめにあたる「おわりに」の内容に入り、前回までは「1 統一教会における信仰のリスク」の分析を行ってきた。今回から「2 韓国の祝福家庭」の内容に入る。櫻井氏はこの節の冒頭で以下のように述べている。
「従来の新宗教研究やカルト研究においては、『なぜ入信したのか』が根本的な問いであり、それに答えることはそれほど難しいことではなかった。本書でも、統一教会特有の勧誘・教化システムとしてその複雑なプロセスを明らかにしている。それ以上に重要な問いが、なぜ信仰を維持できるのかである。」(p.557)

 新宗教研究において「なぜ入信したのか」を問うのは、櫻井氏の言うように一般的なことである。イギリスの宗教社会学者アイリーン・バーカー博士の著書『ムーニーの成り立ち』は、まさに「人はなぜ統一教会に入るのか」という問いを立てて行った研究であった。しかし、「それに答えることはそれほど難しいことではなかった。」という櫻井氏の言い方は非常に傲慢であり、学者としての良心が感じられない。実は人がなぜある宗教に入るのかを解明することはそれほど簡単なことではない。それは「洗脳」や「マインド・コントロール」などの概念で「説明し去って」しまい、「分かった気になる」ことが多いからである。少なくともアイリーン・バーカー博士は、自分で作り上げた論理的な枠組みに断片的な現象を当てはめて分かった気になるという宗教学者の陥りがちな罠に対して、常に警戒しながら研究をした。すなわち、統一教会に入信する者にある特徴があったとしても、必ずそれを「対照群」と比較して、統計的に有意な特徴であるかをチェックしようとしたのである。入信の理由を過度に一般化することに対しても、常に禁欲的であった。彼女の研究には科学者としての良心が感じられた。

 しかし、櫻井氏は本書において人が統一教会員になる理由を、統一教会特有の勧誘・教化システムのみに帰して「説明し去って」おり、伝道された者がもともと持っていた気質や性格、将来に対するビジョンといったような個人的なファクターが、その人が伝道される要因の一つとなる可能性については一顧だにしていないのである。そのことを論じると、どうしても「本人の自己責任」を認めざるを得ないので、議論を封印しているのだ。「なぜ入信したのか」が櫻井氏にとってそれほど難しいことでないのは、最初から結論を決めてかかっているからに他ならない。

 同様に、「なぜ信仰を維持できるのか」という問いかけに対しても、日本の統一教会の信者たちが教会の中で「救いを感じている」「幸福である」「やっていて楽しい」「自己実現できている」「良好な人間関係を築いている」「自己の成長を感じている」などのポジティブなファクターに対しては一顧だにせず、「リスク認知能力が組織的に剥奪された結果である」(p.557)というようなネガティブな理由だけで「説明し去って」いるのである。これも最初から結論ありきの分析である。

 中西氏も本書において、「脱会する信者がいる一方で、現役信者が信仰を保ち続けていられるのはなぜかが問題となる。」(p.403)と述べており、同じ問いの立て方をしている。櫻井氏と中西氏に共通する前提として、「普通の人であれば統一教会を脱会して当然であるにもかかわらず、現役信者として信じている奇特な人々がいる。どうして信じ続けることができるのか、その理由を解明しなければならない。」という考え方がある。普通の宗教団体に対しては、このような考え方はしないであろう。「現役信者として信仰を保ち続けている者たちがいる一方で、脱会する信者がいるのはなぜかが問題となる。」と考えるのが普通である。現存する宗教団体に現役信者がいるのは「当たり前」である。その中で、信仰を続けられなくなる人が出てくるのであって、その事情を分析することを通して、人が信仰を棄てる理由について考察するのが通常のアプローチであろう。しかし彼らは、辞めるのが当たり前であるのに、統一教会のような宗教をどうして信じることができるのか、というバイアスがかかった発想で議論を展開しているのである。

 韓国に嫁いだ日本人女性が信仰を維持できる理由として櫻井氏が挙げている内容は、基本的に中西氏の所見を繰り返しているに過ぎない。①天国に近いアダムの国である韓国の安定性(経済的には不安定でも精神的には楽)、②統一教会の教説は良妻賢母教育と同じで、結婚や子育てに宗教的意義づけがなされるので満足感が大きい、③日本では心身共に疲弊する献身生活だったが、韓国では信仰生活の休息期に入る、④『本郷人』のような機関紙の購読と清平修練会への参加――などの理由により、日本よりも韓国では信仰が維持しやすいという分析である。

 本書の基本的な枠組みとして、「普通な韓国統一教会」と「異常な日本統一教会」、あるいは「ゆるい韓国統一教会」と「強烈な日本統一教会」というというステレオタイプが存在する。韓国統一教会のイメージは中西氏の現地調査からくるものであり、日本における統一教会のイメージは、実際に現役信者を調査して得られたものではなく、櫻井氏が統一教会反対派から提供された裁判資料からくる「虚像」である。これらを短絡的に比較することによって、二人は共通の結論を出そうとしているが、論理的には破綻している。

 そもそも、日本での信仰生活が心身をすり減らすようなものであるのに対して、韓国ではそうではないから彼女たちが脱会せずに信仰を続けていられるのだとすれば、日本の統一教会信者たちがなぜそのような信仰生活を継続していられるのかが説明できない。櫻井氏の言うように、単に「リスク認知能力が組織的に剥奪された」だけで、数万名もの人々が数十年間にわたって心身共に疲弊するような信仰生活を継続できると言うのであろうか? 私の信仰暦は現時点で37年になるが、私以上に長く信仰している日本人の信者は多数いる。本当に心身をすり減らすような信仰生活をしているのなら、日本においてはそんなに長く信仰を継続できないはずである。事実がこのことを反証している。

 実際には、日本における統一教会の信仰生活も心身をすり減らすようなものではない。櫻井氏自身が認めているように、「楽しくなければ続けられない」(p.342)のである。さらに日本の統一教会信者の生活も韓国と同様に、破綻するような状態にはなっていない。日本の統一教会信者の実際の生活は、櫻井氏が描写した脱会者たちの生活よりもずっと多様である。教会員の中には医者も、弁護士も、大学教授も、会社の役員もおり、地方議員や地方自治体の首長を務めている者もいる。特に社会的な地位の高い者でなかったとしても、普通の会社員、公務員、自営業者、あるいは主婦として社会生活を送っている者が大多数である。日本でも大部分の信者が無難に暮らしているとすれば、渡韓した女性たちが信仰を続けていられる理由として、「韓国の安定性」をあげる意味はなくなってしまう。

 そもそも信仰とは、無難に暮らしているからとか、暮らしやすいから続けられるというようなものではない。宗教の歴史をひもとけば、迫害の中でも信仰が力強く燃え盛った事例は数えきれないほどあるし、迫害によって逆に信仰が強化されたことさえある。逆に、江戸時代の仏教や中世ヨーロッパのカトリックのように、権力と一体化して優遇されてしまうと信仰が形骸化してしまうということもある。楽だから、暮らしやすい環境だから、社会から受け入れられているから信仰を維持できるという彼らの論法は、こうした信仰の本質を見落としていると言えるだろう。

 櫻井氏は在韓日本人信者の信仰生活を「安定期」としたうえで、それが揺らぐ可能性を三つ指摘している。①夫婦関係や家族関係が行き詰まった日本人女性が、夫のもとを去って日本の実家に戻る、②日本に帰国した際に脱会カウンセリングを受けて信仰をやめる、③子供が就学年齢に達し、教育投資が必要になる時期に現在の生活環境に対する不満が生じる――といった内容である。このうち、②は安定していた信仰が「揺らぐ」のではなく、人為的に破壊されるということである。「第七章の事例では離婚になった」(p.558)と櫻井氏は言っているから、脱会カウンセリングは安定していた信仰だけでなく、家庭までも破壊したことになる。

 韓日祝福家庭は、いまでは子供たちが就学年齢どころか大学にまで通う段階に入ったと言えるだろう。中西氏が第10章で示したように、韓日祝福家庭の中には経済的に貧しい家庭に加えて、病気、事故、災害、詐欺などで緊急支援を要する家庭も存在した。こうした家庭には「本郷人互助会」が支援を行ってきたことが明らかにされている。このことは、祝福家庭が抱える具体的な問題に対して、統一教会は宗教的・精神的なサポートを与えることにとどまらず、経済的・物質的なサポートもしていることを意味している。統一教会信者の間には互助の精神があり、弱者に対する優しさを持った集団であることが分かるのである。このことは日本でも同じであり、統一教会は「真の愛で結ばれたコミュニティ」を形成することによって、互いの信仰を維持し、高めあっているのである。

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