櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第114回目である。
「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」
元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析の中で、前回から「三 学生信者 学生と統一教会」に入ったが、櫻井氏はまず統一教会の学生信者を「原理研究会の学生」と「地区教会の学生信者」に分け、両者の待遇や性格の違いを強調してみせた。このコントラストはいささか極端で、ステレオタイプ化されたものであるが、それは櫻井氏のインタビューした原理研究会に所属していた元信者の経験が、櫻井氏の描いてきた悲惨な統一教会の信仰生活とかけ離れたものであったため、「これは特殊な組織における特殊な経験に過ぎない」「楽しい信仰生活は、原理研究会の学生時代にしか存在しない」という差別化を行い、統一教会全体の信仰生活に関する自らの主張が崩壊しないように予防線を張ったものであると私は推察した。今回は元信者C(男性)の事例を扱うが、櫻井氏をしてそうした予防線を張らしめるほどに、原理研究会における彼の信仰生活は楽しいものであったのだ。これがリアルな体験であることは、私も同じ組織の出身者として納得できる。Cは1995年から97年にかけて関西の大手私立大学の原理研究会に所属していたということであるから、私よりも10年以上後輩に当たる。以下に原理研究会に関するCの描写を抜粋するが、それは嘘偽りのない言葉であると思われる。
「宗教的な話には抵抗感もあり、文鮮明がメシヤかどうかもよくわからなかったが、合宿が楽しかった。」「学舎長は父親役、母親役の女性リーダー、信仰歴ごとに分けられた兄弟姉妹の関係の中に収まり、そこは家族の雰囲気だった。」「あの頃が一番勉強したと思うくらい。大学の講義以上に難しい。勉強しているというよりも、楽しかった。もっと聞きたい。もうほとんど麻薬に近い状態。」「こうして1996年の夏には学舎に入り、原理研究会にどっぷり浸かっていく。」(p.340)
「学舎では一日20人分の食事代を2000円で切り盛りするほど貧乏で、給食センターからパンの耳を安く分けてもらったり、時には廃棄されたドーナツをホームレスの人達と争ったりもした。」「学舎に入りたての頃は、メンバーがみな子供じみて見えた。取るに足りないことを喜んだり、皆で笑ったりと。しかし、長くそこにいると『自分の価値観が変わり、また生まれ直すという感じで、子供みたいになる』。そのため、大学生の男女が一緒に暮らしているにもかかわらず、異性に対する恋愛感情などは起きず、むしろ、原理研究会のスケジュールの中で一緒にやっている同士のような愛情で満たされているように思われた。」「貧乏で、本当に貧しくて、いつも腹減っていたけれども、楽しくて楽しくてしょうがないって感じ」「新人を誘うために、それまで手紙など書いたことのないCが、何枚も手紙を書けるようになった。」「自分は尽くしてもらえたから、相手にも尽くせるようになった。」「学生の一人暮らしをやっていて友達とも話すが、上滑りの会話が多いわけで、濃密な人間関係の中で自分のこと、家族のこと、将来の夢とか、しっかり話し込めるとどんどん入っていった。」「原理研究会の熱さは自分に合っていた。」(p.341)
Cの証言にはまるで青春ドラマのような熱さがある。それは彼にとっては楽しかった青春時代の一コマとして、今も記憶されているのであろう。通常、裁判の原告になった元信者はこうした信仰生活の「リアル」を陳述書に書いたり、法廷で証言したりしない。それでは被告を利することになってしまうということで、こうした記述はことごとく弁護士の指導によって削除され、受動的な被害者を演じるように矯正されるからである。ところがCは裁判の原告ではなく、自由な立場で純粋に櫻井氏のインタビューに答えたため、原理研究会での信仰生活が楽しくて仕方がなかったことを正直にしゃべっているのである。そこに、彼の証言のリアリティーがあり、裁判資料では隠されている信仰生活の真実がある。こうして櫻井氏の著作全体を俯瞰してみれば、裁判資料を基に構築した「受動的な被害者」としての統一教会の信者像と、直接のインタビューから得られた、楽しい信仰生活を送っている能動的な信者像との間に、齟齬が生じてしまっているのである。そしてこの楽しい信仰生活を送っている信者像は、櫻井氏が特別な組織であると主張している原理研究会にとどまらず、すべての統一教会員に共通する「リアル」なのである。
しかし、この「リアル」が普遍的な信仰生活の真実であると読者に思われてしまっては困るので、櫻井氏はこれがあくまでも「特殊な体験」であることを再度念押ししている。
「大学時代に運動部にでも所属し、辛いけれど楽しかった練習と合宿所での共同生活を物語るようなCの回顧談を怪訝に思う読者もいるかもしれない。原理研究会主催のセミナーを『修学旅行の夜』と評した塩谷政憲の研究(塩谷 1986)にも通じるものだが、これが統一教会における信仰生活の一側面を示していることは事実である。楽しくなければ続けられない。」「しかしながら、既に述べたように原理研究会は統一教会にあって特別に保護された空間であり、伝道や経済活動において厳しく実績を追求されることはない。勧誘からツーデーズセミナー、シックスデーズセミナー、新人研修までは一気に進むが、これを終えれば後は大学の学事歴に沿って年間のスケジュールをこなしていけばよい。大学卒業までに普通に就職して通教するか、献身者になるかを決定すればよいので、セミナー後、新生トレーニング、実践トレーニングと矢継ぎ早に教義と実践を教え込まれ、一気に献身まで詰められるということも行われていない。そうした余裕の中で学生同士の屈託ない会話や寝食を共にする生活が楽しめる。」(p.342)
ここで櫻井氏が、共同生活の楽しさを統一教会における信仰生活の一側面であることを認めているのは重要である。彼の言うとおり、「楽しくなければ続けられない」のであり、それが現実の信仰生活である。これは櫻井氏が紹介している塩谷政憲氏の研究でも指摘されていることだ。塩谷氏は統一教会の魅力を、同じ目標を共有する若者たちが互いに競争し合い、励まし合いながら共同生活をする「青年集団」であるという点に見た。古来より、子供が大人として社会化する際には、一定期間親元を離れ、「若者組」などと呼ばれる青年集団で同じ世代の若者たちと共同生活をする風習が多くの文明圏に存在し、これが若者たちの自立を促進してきた。しかし現代社会においては親離れ・子離れがスムーズにできない場合が多く、その結果、子供たちは親からの精神的独立を求めて青年集団としての統一教会を必要とする、というのである。
「U会(統一教会)のもっている魅力は、単に宗教団体ということではなく、まずは青年集団だということである。この青年集団が若者達に与えてくれるのは、心許せる仲間達との暖かい雰囲気、同じ目標を共有する仲間達との競争、自己の潜在的エネルギィを引き出し方向づけてくれる使命とその使命にもとずく実践的な体験、その体験の世界へと導いてくれるアイデンティティモデルたる身近な指導者、そしてそれらを説明してくれるトータルで対抗的な世界観である。」(塩谷政憲「宗教運動への献身をめぐる家族からの離反」森山清美編『近現代における「家」の変質と宗教』p.170)
櫻井氏がインタビューしたCの体験は、奇しくも塩谷政憲氏による研究を裏打ちするような内容となった。しかし櫻井氏は「第6章 統一教会信者の入信・回心・脱会」において、統一教会信者の信仰生活を実に悲壮なものとして描いたので、齟齬が生じてしまった。彼の描いた典型的な統一教会の信徒像は、組織に巧みに勧誘されて教育された受動的な被害者であり、常に睡眠不足や緊張感や疲労と闘いつつ、朦朧とした意識の中でただひたすら苦難に耐え続け、常に実績の追求と精神的な打撃を受けながら、勝利か敗北かという二者択一を突きつけられて、決死的な決意で教団から要求される活動を行い続ける悲惨な者たちであった。それがここへきて、「楽しくなければ続けられない」ことを認めたのであるから、そのギャップは甚だしい。
この矛盾をカバーするために、櫻井氏は原理研究会が特別に保護された空間であり、彼らは余裕の中で楽しい信仰生活を送っていた、統一教会の中にあっては特異な存在であることを強調するのである。実はこれは、統一教会と原理研究会の違いなのではなく、裁判で主張されている歪めれらた信仰生活の描写と、リアルな信仰生活の描写の違いなのである。実際にはCの体験の中にも貧乏で辛かったことが語られており、地区教会の信者であったAの体験の中にも、同世代の仲間との共同生活の楽しさは語られているのである。どちらの信仰生活においても、辛いことと楽しいことの両方があるのが現実なのであり、地区教会の信仰生活は辛いことばかりで、原理研究会の信仰生活は楽しいことばかりということはあり得ない。しかし、裁判の主張においては辛かったことばかりが強調され、楽しかったことは削除されるのである。リアルな信仰生活の証言の前に、裁判資料によって形作られた虚像がまた一つ崩壊したと言ってよいだろう。