書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』183


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第183回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第177回から「三 現役信者の信仰生活――A郡の信者を中心に」の内容に入った。これは中西氏のフィールドワークによる調査結果を紹介したものであり、彼女の研究の中では最も具体的でリアリティーのある部分だ。今回はその続きで、日本での信仰生活と韓国での信仰生活の違いについて解説した部分を扱うことにする。

 中西氏の分析で一貫しているのは、「過酷な日本における信仰生活」と「楽で落ち着いた韓国における信仰生活」という対比である。その代表的なものを引用すれば以下のようになる。
「A郡の彼女達を見る限り、日本で経験したような肉体的・精神的にきつい信仰生活を送ってはいなかった。」(p.486)
「日本にいたときは独身だったが、韓国で家庭生活を始めると夫や子供の面倒を見なければならず、家庭が優先になって布教や経済活動を行う経済的余裕はなくなる。…統一教会の信者とはいえ、結婚し、韓国で家庭を持てば、信仰生活は日本にいたときよりもはるかに楽なものになっている。」(p.486-7)
「統一教会の信者とはいっても普段の信仰生活は礼拝に出席する程度であり、日本で経験した献身生活と比べるとのんびりしたものである。何か特別な行事があるときには動員があり、裏方として動いたり参加したりするが、無理のない範囲で行えばよく、あくまでも家庭優先である。献金や家庭での信仰生活も厳密なものではなく、行わなかったとしても咎められることはない。結婚難にある農村男性のもとに嫁ぎ、生活は経済的に楽でなく、言葉や生活習慣が異なるというしんどさ、辛さはあっても信仰生活の内容、実践は一般のクリスチャンとあまり変わらず、心身共に落ち着いた信仰生活を送ることができる。献身生活のような厳しい実践が渡韓後も続いたとしたら心身共に疲弊するが、落ち着いた信仰生活に移行することによって信仰を続けていけると考えられる。」(p.489)

 中西氏は韓国で暮らす日本人女性たちの生活を実際に観察したのであるから、彼女たちの信仰実践が肉体的・精神的にきついものではなく、むしろのんびりとしたものであるというのは率直な感想なのであろう。韓国統一教会は一般のプロテスタント教会とあまり変わらない「普通の宗教」であるという彼女のこれまでの主張とも一致している。しかしここで問題となるのは、それを何と比較しているかということである。

 中西氏はそれを日本における「献身生活」と比較して楽なものだと論じているわけだが、彼女自身が日本における信仰生活を実際に観察したわけではないので、両者の生活を客観的に比較して判断することはできないはずである。ここでも日本の「虚像」と韓国の「実像」を比較しているのだと言えなくもないのだが、一方で、彼女の分析があながち思い込みであるとは言えない可能性がある。それは中西氏が日本人女性たちにインタビューしているからであり、彼女たち自身が日本での「献身生活」に比べれば韓国での生活はよっぽど楽だと語っている可能性があるからである。自分の過去を回顧しながら、「あのころに比べればいまは楽だ」と語る日本人女性がいてもおかしくはない。

 しかし、そこには二重の比較が重なっていることに留意しなければならない。それは独身生活と家庭生活の比較という層と、日本における信仰生活と韓国における信仰生活の比較という層が折り重なっているという意味である。日本においても、独身時代には日々活動に明け暮れていた信者が、家庭を持った途端に家事や育児に追われるようになり、ほとんど活動ができなくなるという現象はよく見られる。特に女性の場合には出産を機に生活は大きく変わり、どうしても子供中心の生活になるのが普通である。その点に着目すれば、中西が比較しているのは日本と韓国の信仰生活の違いではなく、独身時代と家庭出発後の信仰生活の違いである可能性がある。この点を厳密に論じるためには、日本において家庭を持った女性信者の生活を観察し、それを韓国と比較しなければならないのであるが、彼女はそれをしていない。そのため、渡韓前と渡韓後の彼女たちの信仰生活の違いの本質が何であるのかを正確にとらえることができず、日韓の教会のあり方の違いにその原因を求めてしまっているのである。

 一般に統一教会では、家庭を持つことによって信仰が「内面化」されるという傾向がある。独身時代にはとにかく体を動かして、実践することを通して信仰を確立していく。それはある意味で体育会系の訓練と同じように、激しいほど人格に与える影響が大きく、同時に充実感を覚えるのである。しかし、これが可能なのは若い時の限られた期間であり、年齢を重ねれば外面的にはそれほど激しく活動しなくても、内面において信仰が充実していくように変化していく。その重要なステップが家庭出発であり、個人として段階から、夫や妻として、父親や母親として生きる中でより深い信仰の世界を築いていくのである。これは外面的に激しい活動をしなくなったからといって信仰が弱くなったのではなく、日常生活の中で信仰の意義を発見していくより本質的な段階に入ったと理解することができる。信仰生活は辛いことや苦しいことをするのが目的ではない。自己否定をして堕落性を脱ぐ段階においてはそうしたプロセスが必要かもしれないが、その段階を過ぎれば外面的には落ち着いた生活をしながらも、霊的には充実した生活を送ることができるようになる。その契機となるのが、家庭出発なのである。

 こうした信仰生活の「質的変化」をうまく通過することができないと、「独身時代にはあれだけ頑張って充実した信仰生活を送っていたのに、家庭を持ったとたんに日々の生活に追われるようになり、霊的な充足感を感じられなくなった。」と漏らすようになってしまうのである。

 実はこの外的活動による充実感から信仰が「内面化」するというプロセスは、家庭を持つときに起きると同時に、日本と韓国という国の壁を越えて異文化体験をするときにも起きる。その意味で渡韓した日本人女性たちは二重の意味で「内面化」のプロセスを通過していることになる。それをうまく通過して価値観が転換された場合には韓国社会に定着することができるようになるが、いつまでも日本的な価値観を引きづっていると渡韓先で不適合を起こすようになる。そうした例が、本書で紹介されている元信者FとGである。

 彼女たちは共に、「日本にいたときは韓国の統一教会は日本よりも信仰的で霊的に高いと教えられてきたが、実際に韓国に来てみるとそんなことはなく、かえって日本の統一教会の方が信仰的で、献身的で、活動熱心である」と感じていた。これは彼女たちが持っていた日本人的な「ものさし」で測った場合に、韓国人の信仰が低いように見えたということなのである。既にこのシリーズで紹介した『本郷人の道』の著者である武藤氏はこの点について以下のように説明している。

 日本人はまず神と我の縦的関係を築くという旧約時代の立場から始めなければならず、その信仰生活は横的な自分を否定して縦的な関係を重要視するようになる。したがって日本人の信仰観は、み言葉を文字通り、外的に一字一句違えず守るという要素が強くならざるを得ない。そして外的な行動の基準や実績を立てることによって分別し、儀式的内容を厳密に重要視することを通して心霊の復活も果たされる。アベル・カインの関係も組織における規則的関係として捉えられることが多く、カインとしてアベルに従うことの重要性が強調される。

 一方、韓国では外的な蕩減条件以上に内的な「精誠」が重要視される。そして韓国の食口は神と真の父母に対する自分の信仰を人前にそれほど表現して見せないので、外から見ると信仰のない一般の人と変わらないように見える。韓国では教会でも何よりも個人の自由を尊重し、あまり干渉した指導をしない。アベル・カインの関係も絶対的なものではなく、韓国人は位置的なアベルの言葉に対して一様には従わないことがある。韓国人は目に見える組織を超えた心情組織を持っていて、信仰的には一人でしっかりしている。日本人女性も韓国に定着すれば、自然とこのような信仰のあり方を学ぶこととなり、それを相続して内面化していく。

 中西氏はこうした信仰の内面世界を見ることができないので、単純に日本と韓国の信仰生活のきつさや激しさを比較して、韓国の方が楽でのんびりしているといる結論を出したのである。しかし、統一教会の信仰はただ単に外的な活動の激しさだけで測ることができるものではない。たとえ外的には楽になったように見えたとしても、渡韓した日本人女性たちは別の次元の戦いをしているのであり、それを通して霊的に成長しているのである。

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