書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』72


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第72回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、ライフトレーニングの次の段階としての「フォーデーズセミナー」(p.235-245)について説明している。これは4日間の泊まり込みの研修会のことだが、櫻井氏によればそのスケジュールは「基本的にツーデーズセミナーと同じだが、研修内容として、文鮮明の生涯、統一教会を取り巻く国際情勢や反対運動をそれぞれ半日かけて学習することが加わる」(p.235)とされている。

 櫻井氏は冒頭で、「このセミナーの目的は、受講生に統一教会の信者として献身生活を決意させることにある」(p.235)と断言しているので、まずはその目的がどの程度達成されているかを数値に基づいて分析することにする。拙著『統一教会の検証』(光言社)によれば、「日本においては外部の学者による統計調査は存在しないが、統一教会の信徒団体が一九八四~九三年にわたって一部地域で行ったサンプリング調査がある。それによれば、その十年間に伝道されて定期的に統一原理を学習するようになった者三万六千九百十三人のうち、二日間の修練会に参加した者が一万四千三百八十三人(三九・〇%)、四日間の修練会に参加した者が八千二百五十八名(二二・四%)、そしてその中から実践活動を行う信者になった者が千二百七十四名(三・五%)であるという結果が出ている」(32頁)。ここでフォーデーズに参加した8258名のうち、最終的に実践活動を行うほど献身的な信者となった者が1274名であることから、櫻井氏の記述する「フォーデーズの目的」に基いて事実を分析すると、目的の達成率は15.4%に過ぎないことになる。

 また、東京における「違法伝道訴訟」に原告側が提出した証拠(甲第57号証)には「4DAYS現状調査」という、フォーデーズ参加者の追跡調査を行った表がある。これは連絡協議会傘下の東東京ブロックの青年支部が行っていた伝道活動に関する資料であるが、1988年の11月から1989年の3月までのフォーデーズ新規参加者数が438名となっている。そのうち新生トレーニングに進んだのが288名で、実践トレーニングに進んだのが165名、その中で「フリーになる」、すなわち仕事を辞めて連絡協議会で専従的に活動するようになった者は18人となっている。この数はフォーデーズの全参加者の4.1%に過ぎないことになる。これは私の著作の15.4%よりかなり低い数字である。統一教会の伝道方法が「強制的」なものであることを主張するためには、セミナーに出た人のほとんどがフリーになると主張した方が説得力がありそうなものだが、実際の数値は驚くほど低いものとなっている。この証拠は、統一教会を訴えた原告側が提出したものであるため、敢えて嘘をついて低い数字を示す理由はなく、実際のデータを提示したものであると考えられる。

 すなわち、いくらセミナーに参加させたとしても、全員に「献身」を決意させられるものではなく、大部分の者はそれを拒絶しているというのが事実なのである。そこには明らかに本人の自由意思が働いており、教えを受け入れない人に無理やり「献身生活」を決意させることなどできないのである。したがって、櫻井氏がいかにフォーデーズの様子を情緒的に描写してその説得力を強調したとしても、その効果は客観的な数値によって反証されてしまうのである。櫻井氏は社会学者なのであるから、裁判の原告側が主張する情緒的な説得力を鵜呑みにするのではなく、客観的なデータに基づいてその効果を評価すべきではないだろうか。

 しかし、櫻井氏はこうしたデータには触れることなく、以下のような表現で「フォーデーズセミナー」が人の情緒を揺さぶるものであることを強調する。
「宗教的行為は、知情意のうちで情に関わる部分が著しく大きいという点で、他の社会的行為と異なる。どんなに崇高な教えや徳目であっても、頭で理解し、強い意志をもって行為せよと命じただけでは人は動かない。自ら動きださざるをえないような強い情動が必要である。多くの宗教では儀礼に参加することでそうした情動を得ることができる。儀礼は荘厳な雰囲気の中、伝統的なやり方で執行することで、儀礼参加者は過去現在未来永劫に変わらない普遍的な聖なる時間に生きることができるのである。ヨーロッパの大聖堂において荘厳なミサに出席すれば誰しも敬虔な気持ちになるだろう。」(p.237)

 ここまでは教科書的な「儀礼の効果」の説明に過ぎないのだが、問題は次の記述である。
「日本の統一教会のように建物を飾らず、聖なる象徴物も置かない研修施設では、聖なる雰囲気を醸し出すのが難しい。したがって、ここが聖なる空間であることを統一教会では能弁に物語る必要性が出てくる。唯一、儀礼的空間を作り出しているのが、『お父様の詩』いう文鮮明の教説を示すときである。」「イエスはメシヤであることが認められなかったばかりか、惨めで無念な死を遂げたことを講師は泣き出さんばかりの無念さを持って語るのである。」(p.237)
「ここまで二時間あまりもこの種の話を聞かされれば、女性の受講者は大半が泣き出してしまう。あまりに臨場感のある説明のために受講生たちは自分がイエスを十字架につけたという気になっている。感情が盛り上がってきたところで、聖歌、祈祷がなされ、講師は退席する。」(p.238)「ありとあらゆる音響がこだまする中で受講生達の感情は抑制が完全に外された状態になる。」(p.241)

 イエスの生涯を感動的に語るというのは私自身がやってきたことなので、櫻井氏の描写する「イエス路程」がそれほど事実と異なっているとは思わない。むしろ女性の受講生の大半が泣き出してしまい、受講生たちに自分がイエスを十字架につけたのだと思わせることに成功したとすれば、それは素晴らしい講義なのではないかと思う。これがキリスト教の礼拝でなされたら、最高の説教として礼賛されることだろう。言葉をもって人を感動させるのは宗教の王道であって、なんら批判されるべきものではない。

 宗教が人を感動させる方法はさまざまある。立派な聖堂や伝統的で荘厳な儀礼によって聖なる雰囲気を醸し出す宗教もあれば、能弁な語りによって感動させる宗教もある。修行などの体験を重視するものもあれば、最近はハイテクの演出効果によって雰囲気を盛り上げる宗教もあるだろう。キリスト教の中では、カトリックが立派な聖堂や荘厳な儀礼によって宗教的雰囲気を醸し出すのに対して、プロテスタントの礼拝堂はむしろシンプルで飾りが少なく、「神の言葉」を語ることが重要視される傾向にあることはよく知られている。統一教会の研修会の伝統は、どちらかといえばプロテスタント的だということであり、それも含めて宗教の個性だとしか言いようがない。もっとも、最近は統一教会も清平に巨大な宗教施設を立てたり、「按手」や先祖解怨などの偽礼を通して信仰心を高めるというようなカトリック的要素を取り入れてきていると見ることもできる。いずれにしても、それは「信教の自由」の範疇に属すると言え、善悪・優劣をつけられるものではない。

 櫻井氏はあたかも自分が見てきたかのように、フォーデーズの講義が一種異様な感情に受講生たちを追い込むものであると主張するが、実際には彼は研修会の参与観察を行っていない。一方で、実際に統一教会の修練会を参与観察したアイリーン・バーカー博士はその様子を以下のように描写している。
「講義は、高等教育の多くの場所で毎日(同じかそれ以上の時間)なされているものよりもトランスを誘発するものではない。さらに、私が観察したことは、入会する者たちは講義の内容が面白くて刺激的であると感じたらしく、また積極的に聞き耳を立て、ノートをしばしば取っており、そして(講義の後で質問をすることから明らかなように)自分自身の過去の体験と関連づけているのである。統一教会の修練会では、お経や呪文のようなものが唱えられることはほとんどない。仮にそれが行われるところでも(欧米では、主にカリフォルニアであったが)、ゲストに関する限りは非常に限定された性格のものである。確かに、それはクリシュナ意識国際協会の寺院を訪問したときに参加するように勧められるお経や、実際に、より伝統あるヒンドゥー教の寺院で通常行われているものほど激しくはない。統一教会は恍惚状態を志向する宗教ではないし、通常の活動の一部として、信者たちを熱狂に駆り立てることはしない。・・・意識の変容状態または催眠については、そのような言葉が全く空虚な意味で適用され、同語反復的に用いられるか、普通の、日々起こっていることを描写しているのでない限り、統一教会の修練会に参加したことのある者なら誰にでも明らかなように、こうしたことは全く起こっていない。」(『ムーニーの成り立ち』第5章 選択か洗脳か?より抜粋)

 この違いはどこにあるのだろうか? バーカー博士が客観的な第三者として自らの目で統一教会の修練会を記述しているのに対して、櫻井氏の記述は裁判で争っている一方当事者の主張を再構成しているのに過ぎない、ということである。それは彼自身が見聞きしたファーストハンドな情報ではなく、あくまで脱会した元信者の目を通して観察されたフォーデーズセミナーの描写をトレースしているだけである。そしてそれは、裁判において損害賠償を請求するための、戦略的に変形された描写なのである。こうした偏った資料に依存し、研修会の様子を自分の目で実際に確認しようとしないのは、櫻井氏の研究方法の致命的な欠陥である。

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