書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』168


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第168回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。今回は中西氏の解説する「2 任地生活の役割」について扱うことにする。

 中西氏は、「任地生活は六五〇〇双(一九八八年)の祝福のときから始まった。本格的に韓日祝福が開始され、多くの日本人女性が韓国で暮らし始めるにあたって設定されたものと捉えられる。」(p.466)と記述している。これは既に紹介した『本郷人の行く道』の解説に基づいており、事実の通りである。

 続いて中西氏は、「韓国には『シジプサリ(嫁暮らし)』という言葉がある。夫や舅姑に無条件に仕えて暮らす嫁のあり方をいうが、シジプサリは婚家に入った女性にとって大変辛いものであると捉えられている。韓国の女性にとって辛いものなら韓日祝福の日本人女性にとってはなおさらであろう。恋愛感情もない男性の妻となって、言葉も生活習慣も違う韓国で結婚生活を始めるわけである。辛さは相当なものだと思われる。任地生活はシジプサリに備えての準備期間といえる。」(p.466-7)と述べている。

 私の知り合いの中にも、韓国に嫁いで舅姑と同居している日本人女性がおり、彼女たちが「シオモニ(姑のこと)に侍るのがすごく大変だ」という話を聞いたことはあるので、シジプサリが大変だというのは事実なのであろう。しかしここで問題となるのは、中西氏が韓国人の女性にとって辛いものなら日本人女性にとってはなおさら辛いものであるというように、これを不合理で理不尽なものであるかのように描いている点である。さらにたたみかけるように、「恋愛感情もない男性の妻となって、言葉も生活習慣も違う韓国で結婚生活を始める」というような言葉を添えて、悲壮感を増大させている。もしこれが自分の意思と関係なく降って湧いた災難であればその通りであろうが、韓日祝福を受けた日本人女性は、自分の意思で国際結婚を選択したのであり、そうしたことは覚悟の上で渡韓していることを忘れてはならない。国際結婚が言語や文化風習の違いにより、同国人同士の結婚よりも困難が多いことは初めからある程度予想できる。にもかかわらずそれを選択したということは、そこに宗教的な意義を感じたからであり、敢えてそのような苦労の道を歩もうと決意したということである。

 人間には、より楽な道やより安易な道を選択しようとする人がいる一方で、より厳しい道やより難しい道を選択し、その中で自分を成長させたり、大きなことを成し遂げようとする人もいる。武道の稽古やスポーツのトレーニングは、目標が大きいほど厳しくなるものである。それでもそこにあえて挑戦していく人々は、目先の安楽な生活よりも苦難を乗り越えた後に得られるであろうより大きな喜びの方に心を奪われているからこそ、日々の辛い訓練に耐えることができるのである。宗教的な修行に励む人々も、肉体的な苦痛の向こうにある霊的な喜びに心を奪われていると言える。武道、スポーツ、宗教に限らず、ストイックに何かを追求しようとする人々の態度は、同じような傾向を示していると言えるだろう。韓日祝福を受けた日本人女性はこうした精神性の持ち主であり、その動機は基本的に宗教的な修行に励む人々に近いと言えるだろう。

 とはいえ、シジプサリの苦労がどのようなものであり、どのようなことに気をつけて乗り越えていけばよいのかを、先輩たちの経験に基づいてあらかじめ教育されてからそこに入っていくのと、まったく予備知識なしに入っていくのでは、困難の度合いは大きく異なるであろう。「渡韓修練会」や「任地生活」は、まさにそうした親心からくる事前教育と準備期間なのである。前述の『本郷人の行く道』の中から、シジプサリの心構えについて述べた部分を抜粋してみよう。
「さまざまな誤解を避けるための私たちの姿勢としては、最初はシオモニに対して、『韓国と日本の文化は違う。私は韓国のやり方は何も知らないので、一つ一つ教えてください』とお願いしなければならず、一つ一つ謙遜に尋ねなければなりません。」
「伝統的には、家庭に入った新婦は、最初の三カ月ぐらいは新米見習いのように、毎日韓服を着て朝早くから家事をするという光景が見られます。」
「韓国では家の中で、女性は女性同士、シオモニを中心とする序列に従って協力体制をこなさなければなりません。」
「それはやはり儒教的序列から、一度は完全に従わなければならない世界があります。」
「嫁の立場では、たとえその指導に無理があっても、素直にその通りにやりさえすれば、すぐに『うちの嫁はチャッカダ(善人だ)』として非常に褒められるのが韓国です。」
「日本人女性の中にはシオモニが日本では考えられないくらい干渉が強い、として悲鳴を上げる人がいます。ノックもしないで部屋に入ってくるし、勝手にタンスの中を見るし、『プライバシーがない!』と、最初は嫌がる人もいますが、韓国では家族はそのようなものです。」
「そのようなシオモニの干渉は『シジプサリ』の伝統的つきものだとして柔軟に構えなければなりません。」
「そのように韓国の『シジプサリ』というのは、決して生易しいものではありません。韓国では嫁といったら『亜三年、聾三年、盲三年』と教えられ、特に長男の嫁は『見ざる言わざる聞かざる』の”僕”の生活でシオモニに仕えて、家の全てを任される『位置』を確立しなければならないといわれるのです。」(以上、『本郷人の行く道』p.230-232から抜粋)
「韓日家庭になったこと、韓国で暮らすことは、まず何よりもその韓国人の”多情さ”パワーに対抗しなければならないことを意味しています。特に女性は今後『韓国の母』となり、韓国の息子、娘を生んでいく『オンマー』とならなければなりません。韓国に嫁として嫁いだ限り、多くの韓国人の深い情の世界を知らねばならず、そのような韓国での人間関係に入っていこうとすることは、少なくとも自分の性格を変えるほどの覚悟が必要となるでしょう。」(『本郷人の行く道』p.324)

 これだけを読めば、自由を満喫して生きてきた現代女性には耐えがたいものであるという印象を受けるであろう。しかしここで忘れてならないのは、韓日祝福を受けた日本人女性は一般的な現代女性ではなく、信仰の訓練を受けてきた統一教会の信者であるということだ。一般人には辛く耐えがたいと感じられることも、信仰があれば乗り越えられるという構造になっているのである。言ってみれば、韓国での「シジプサリ」はこれまで日本で受けてきた信仰の訓練の応用実践なのである。両者には相通じるものがあるがゆえに、乗り越え方のコツさえ教えてあげれば、日本で受けた信仰の訓練が生かされるということだ。

 中西氏は、調査地であるA郡での任地生活を観察して、以下のような分析をしている。
「任地生活は夫の地元の教会に住み込んで行う。」「任地生活のプログラムは特に決められていない。牧師夫妻の食事を準備したり、来客があればお茶を出したり、掃除をしたりして自ら進んで教会の用事をこなす。任地生活は住み込みのお手伝いさんのようなものと捉えるとわかりやすいのではないかと思う。」(p.467)
「教会には先輩の日本人女性もしばしば顔を見せ、いろいろ教えたり、相談にのったりする。任地生活中の女性は一人でゆっくりする時間もなさそうだが、日本でホーム生活を経験しているためかあまり苦にならない様子だった。ホーム生活を経験していないものであっても訓練として受け止める。」(p.467)
「任地生活は見たところ、日本でのホーム生活のようなものである。ホーム生活は信者の共同生活であり、ここから統一教会信者としての歩みが本格的に始まるが、任地生活も教会に住み込むという点で共同生活であり、ここから在韓信者としての歩みが始まる。」「ホーム生活も任地生活も世俗生活から統一教会の生活へ、日本の生活から韓国への生活への移行を助けるものとしてある。」(p.468)

 中西氏の任地生活に対する分析は、事実をありのままにとらえている。その意義は日本から嫁いできた女性たちが、言語と文化の壁を乗り越えて韓国社会にソフトランディングするための「移行期間」ということになるであろう。

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