書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』181


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第181回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第177回から「三 現役信者の信仰生活――A郡の信者を中心に」の内容に入った。これは中西氏のフィールドワークによる調査結果を紹介したものであり、彼女の研究の中では最も具体的でリアリティーのある部分だ。今回から献金に関する部分を中心に分析する。韓国の教会における日本人女性の生活を実際に観察しインタビューした中西氏の記述を抜粋して引用してみよう。
「献金は献金封筒に入れて献金箱に入れる。献金封筒は一家庭一封筒、夫婦の名前が記されており、年間を通して使用するようになっている。これも一般のプロテスタント教会と変わらない。」(p.478)
「①は統一教会の八代名節ごとの献金である。プロテスタント教会では復活節、感謝節、聖誕節などに特別献金をするが、統一教会にはそれらの行事はなく統一教会の記念日に特別献金をするようになっている。」(p.479)
「③『十・三条献金』はプロテスタント教会の十分の一献金にあたる。統一教会では十分の三になっており、献金封筒には次のような文鮮明の言葉が記されている。『今から私たち統一教会信者は十の一条ではなく十の三条をしなければならない時代がきたのです。一つは教会のため、一つは国のため、一つは世界のためにです。――マルスムより――』」(p.479)
「しかし、聞き取りによれば、日本人女性信者はこの通りの献金はできていないようである。十分の三献金も建て前で、現実には十分の一すら難しい。」(p.479)
「B市のある女性信者は、夫が勤め人だが『全部していたらきりがない。家計が大変だから要請があっても全額はしない』と語っていた。夫が勤め人であってもある程度の収入がないと十分の一献金は難しいようである。」(p.479)
「A教会の女性信者は日本の壮婦がクレジットカードで借金をして献金するほどのことはしていない。韓国に嫁いでしまえば、エバ国家としての献金の責務からは逃れられるし、日本の女性達は元々経済的に余裕もない。献金はできる範囲でしており、献金に苦しんでいる様子はなかった。(p.479-480)

 中西氏が繰り返して述べているのは、信仰の内容に違いがあったとしても、韓国の統一教会は外形的には一般のプロテスタント教会と変わりのない「普通の宗教」であるということだ。献金額が収入の十分の一ではなく十分の三とされている点ではプロテスタント教会よりも献金の要請が高い宗教であると言えなくもないが、実際にはそれも建て前であり、十分の一さえできていないのであるから、やはり「普通」ということになるのであろう。これは韓国に嫁いだ日本人女性たちの現実を反映していると思われるが、日本の壮婦と比較している下りは、中西氏が実際に観察して得た情報ではなく、櫻井氏から提供される資料に基づくものであり、ここでも中西氏は「韓国の実像」と「日本の虚像」を比較していることになる。

 中西氏の献金に関する記述は、献金封筒や献金箱、名節献金、十・一条の実践の程度の全ての面において、日本の統一教会の現実と同じであり、日韓の間に大きな差異はない。そこに大きな差を見出しているのは、中西氏が日本統一教会の実態を知らないからである。それでは、中西氏が韓国の統一教会の「実像」と比較している、日本統一教会の「虚像」とはなんであろうか? それは櫻井氏の頭の中で構築された、「日本の統一教会信者はなぜ献金するのか」という「理論」なのである。

 櫻井氏は本書の167ページおいて、「統一教会の信者は、地上天国の実現、霊界の解放という宗教的理念のために世俗的生活を犠牲にする。」と述べている。それは「一般市民にとって重要な生活の安定、家族の扶養、老後の保障といった問題を一切度外視して」まで行う異常なものとして描かれている。実際にはこれは言い過ぎであり、このようなことを徹底していたら統一教会は存続しえないはずであるが、この強烈なイメージが中西氏の頭の中に「虚像」として存在するため、どうしても「普通の宗教」である韓国統一教会とそれを対比させてしまうのである。

 櫻井氏は本書の中で紹介している元信者Iの弁護団から依頼されて、Iに対する違法な働きかけに関する意見書を提出したことを自ら明かしており、その意見書の論理的な組み立てを本書の中で紹介している。

 通常、民事訴訟において損害賠償が成り立つのは、被告側に違法行為があったと認められる場合である。これは民法上の不法行為だが、統一教会を相手取った訴訟では、原告は統一教会の信者から先祖の因縁や霊界についてのおどろおどろしい話を聞かされ、「威迫困惑」によって不安な精神状態に追い込まれた結果として、金銭を拠出したと訴えるケースが多い。ところが、そのことを立証するのはそれほど簡単なことではないのである。

 伝道の初期段階において、手相や姓名判断を受けたとか、先祖の因縁や家系の衰退の話をされたとか、その結果として印鑑や念誦などを授かったという事実があった場合には、実際のトークにおいてどんなことが語られたのかについては原告と被告の間に争いはあるかも知れないが、裁判所が「威迫困惑」であると認定するのは比較的容易である。しかし、一通りの教育が終わり、統一教会の信者となった後には、献金を要請される度ごとに「威迫困惑」であるとただちに認定することができるような言説が語られているわけではない。それはそうである。月例献金や、毎週の礼拝で献金をする際には、その都度マンツーマンで心理的なプレッシャーを加える必要はなく、なかば習慣的に献金を捧げているのである。また特別な機会に高額の献金をする場合にも、既に出来上がっている相互の信頼関係に基づいて献金の勧めが行われるため、「威迫困惑」であると認定できるような言説が語られることはないのである。元信者Iは13年間も統一教会にいたのであるから、その間の献金の大部分は信徒として、信仰を動機として捧げたものであった。

 これでは初期に捧げた金銭に対してのみ損害賠償が請求可能であり、信仰を持った後に捧げた献金は自由意思に基づいて行ったものであるから違法性はなく、取り戻すことはできないという結論になってしまう。反対弁護士としてはこれでは困るので、初期に感じた「威迫困惑」を固定化し永続化する装置が存在するので、統一教会に捧げたすべての献金に違法性があることを学問的に立証して欲しいと櫻井氏に頼んできたということなのだろう。櫻井氏は元信者Iについて分析した箇所で、「このような分析的知見からIの信仰を捉えると、Iに対して統一教会が献金を要請する度に畏怖困惑に追い込む心理的プレッシャーをかけていたのではないことがわかる。統一教会に関わる過程において強迫・恫喝といった外形的な心理的圧力が常にかけられていたとすれば、Iの精神はストレスで疲弊し、精神的な疾患に追い込まれるか、統一教会を去っていたはずである」(p.393)と述べている。このこと自体は事実の客観的な把握である。しかしそのままでは違法性を主張して統一教会の責任を追及できなくなってしまうので、儀礼や統一教会の専門用語を通じて、不安や恐怖が持続され、固定化されるのだと主張しているのである。

 これはあたかも統一教会の信者が、伝道の初期に埋め込まれた恐怖や不安の感情を儀礼や専門用語によって固定化された存在であり、指導者が一声かければまるでパブロフの犬のように条件反射的に献金するようになるのだと言っているわけで、完全に統一教会信者をバカにしきった分析である。献金をする統一教会信者は「頭で判断して動くよりも感情に突き動かされて行動して」いるというのであるから、理性を失っていることになり、結果的に洗脳やマインド・コントロール論と同じになってしまう。もしこのような効果が永続するのだとすれば、統一教会信者は献金を断る理性的な判断能力を失っていることになる。ところが実際には、韓国に嫁いだ日本人女性たちは、家計の状況に鑑みて献金要請に応えないという判断をしているのである。これは日本でも同じであり、家計の状況に鑑みて献金要請に応えない信者は多数いるのである。櫻井氏の理論は空想の産物に過ぎない。

 そもそも、統一教会信者の信仰の動機が不安や恐怖であると規定すること自体に重大な誤りがある。また、リーダーが語る専門用語を聞いたからと言って、条件反射的に献金するわけでもない。多くの信者は指導者の言うことが本当に正しいのかどうか批判的に聞く耳を持っているし、たとえ指示が正しいものであると思われたとしても、それを実行するのが現実的に難しいと思った場合には従わないこともある。そして、やるべきことがあまりにも多すぎてすべてを実行できないときには、何を重要視すべきかを取捨選択するという合理的な判断をするのである。理想と現実には常にギャップがあり、それにうまく折り合いをつけていくのが信仰生活の実際である。大枠として信仰を維持しながら、個々の指示に対しては臨機応変に対応しているのが統一教会信者の大半である。これらはすべて条件反射によって行っているのではなく、個々の信者が自分の頭で考えて決断していることなのである。

 櫻井氏の研究の致命的な欠陥は、こうした現役統一教会信者のリアルに触れたことがなく、裁判資料や脱会した元信者の証言だけに基いて分析と理論構築を行っている点にある。それを鵜呑みにして、日本の統一教会を異常なものであると決めつけて韓国と比較する中西氏は、事実に基づいて物事を客観的に判断するという学者としての基本的な姿勢を見失っているとしか言いようがない。

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