書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』137


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第137回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 「六 統一教会の教化方法の特徴」の分析の三回目である。櫻井氏は、人が統一教会に伝道されるプロセスに関して、以下のような非常に分かりづらい内容を書いている。
「一般市民が統一教会の信者になる過程は、心理的圧力→認知のゆがみ・不安状態→正常に戻る→心理的圧力→認知のゆがみ・不安状態に陥るというプロセスの繰り返しではない。心理的圧力→不安状態→認知枠組みの揺れ→問題解決の指針の提示→認知枠組みの転換といった一連の過程により、徐々に当人の思考方法の基盤が変容していくのである。」(p.394)

 にわかに理解しがたい解説だが、要するにここで言いたいのは統一教会の影響力が「その都度型」なのか「永続型」なのかという問題であり、櫻井氏は前者を否定して後者を肯定しているわけである。なぜこんな分かりにくいことを述べなければならないのかと言えば、それは元信者Iが統一教会を相手取って起こした裁判に櫻井氏が関わり、Iの弁護団から依頼されて、Iに対する違法な働きかけに関する意見書を提出したことと関わりがある。

 通常、民事訴訟において損害賠償が成り立つのは、被告側に違法行為があったと認められる場合である。これは犯罪とは異なり、民法上の不法行為であるわけだが、統一教会を相手取った訴訟では、原告は統一教会の信者から先祖の因縁や霊界についてのおどろおどろしい話を聞かされ、「威迫困惑」によって不安な精神状態に追い込まれた結果として、金銭を拠出したと訴えるケースが多い。ところが、そのことを立証するのはそれほど簡単なことではないのである。

 伝道の初期段階において、手相や姓名判断を受けたとか、先祖の因縁や家系の衰退の話をされたとか、その結果として印鑑や念誦などを授かったという事実があった場合には、実際のトークにおいてどんなことが語られたのかについては原告と被告の間に争いはあるかも知れないが、裁判所が「威迫困惑」であると認定するのは比較的容易である。しかし、一通りの教育が終わり、統一教会の信者となった後には、献金を要請される度ごとに「威迫困惑」であるとただちに認定することができるような言説が語られているわけではないという事実が存在するのである。それはそうである。月例献金や、毎週の礼拝で献金をする際には、その都度マンツーマンで心理的なプレッシャーを加える必要はなく、なかば習慣的に献金を捧げているのである。また特別な機会に高額の献金をする場合にも、既に出来上がっている相互の信頼関係に基づいて献金の勧めが行われるため、「威迫困惑」であると認定できるような言説が語られることはないのである。元信者Iは13年間も統一教会にいたのであるから、その間の献金の大部分は信徒として、信仰を動機として捧げたものであった。

 これでは初期に捧げた金銭に対してのみ損害賠償が請求可能であり、信仰を持った後に捧げた献金は自由意思に基づいて行ったものであるから違法性はなく、取り戻すことはできないという結論になってしまう。反対弁護士としてはこれでは困るので、初期に感じた「威迫困惑」を固定化し永続化する装置が存在するので、統一教会に捧げたすべての献金に違法性があることを学問的に立証して欲しいと櫻井氏に頼んできたということなのだろう。それに応えて櫻井氏が書いた意見書に効果があったのかどうかは不明だが、ここで注目すべきことは櫻井氏が純粋に学問的な動機ではなく、「統一教会の勧誘・教化方法の違法性を立証する」という明確な裁判上の目的をもって分析や理論構築をしているという点である。要するに結論ありきの研究であるということだ。彼は裁判で争っている一方当事者の利益を代弁する立場に立っており、既に利害関係者の一部になってしまっている。このことが、彼の学問的主張に深い影響を与えていることは疑いがなく、それは彼の研究の客観性・中立性を著しく損なっていることは繰り返し指摘しておきたい。櫻井氏自身が「もとより、そのようなものはまったく尊重していない」というのであれば、こうした批判も馬耳東風なのかもしれないが・・・

 櫻井氏は元信者Iについて分析した箇所で、「このような分析的知見からIの信仰を捉えると、Iに対して統一教会が献金を要請する度に畏怖困惑に追い込む心理的プレッシャーをかけていたのではないことがわかる。統一教会に関わる過程において強迫・恫喝といった外形的な心理的圧力が常にかけられていたとすれば、Iの精神はストレスで疲弊し、精神的な疾患に追い込まれるか、統一教会を去っていたはずである」(p.393)と述べている。このこと自体は事実の客観的な把握である。しかしそのままでは違法性を主張して統一教会の責任を追及できなくなってしまうので、儀礼や統一教会の専門用語を通じて、不安や恐怖が持続され、固定化されるのだと主張しているのである。その部分を引用してみよう。
「ここで認識の変容を導き、さらに固定化する際に重要な働きをなすのが、儀礼・状況に付随して記憶された感情(畏れ、困惑、依存)、特定の宗教行為(献金の要請)に対して用いられた統一教会の専門用語(解怨、侍る、サタンが讒訴する、自己否定等々)である。認識の枠組みがいったんできてしまうと、統一教会の用語が語られ、信者が口に出して行為する中で、益々このような言語の概念により形作られた特殊な宗教的世界観が強化されていく。そうなれば、特定の行動場面において、特定の言語を指導者が発しただけでも、信者は言葉が語られた場面の記憶と感情を蘇らせ、頭で判断して動くよりも感情に突き動かされて行動してしまうようになる。」

 これはあたかも統一教会の信者が、伝道の初期に埋め込まれた恐怖や不安の感情を儀礼や専門用語によって固定化された存在であり、指導者が一声かければまるでパブロフの犬のように条件反射的に献金するようになるのだと言っているわけで、完全に統一教会信者をバカにしきった分析である。献金をする統一教会信者は「頭で判断して動くよりも感情に突き動かされて行動して」いるというのであるから、理性を失っていることになり、結果的に洗脳やマインド・コントロール論と同じになってしまう。これは櫻井氏が統一教会信者の生の信仰生活を全く知らないから言えることであり、現実とは全く乖離している。

 私は現役の統一教会信者だが、統一教会の信仰を持つようになった主要な感情は恐怖や不安ではなく喜びと感謝であり、儀礼に参加したり専門用語が語られた際に不安や恐怖を感じることはない。そもそも、統一教会信者の信仰の動機が不安や恐怖であると規定すること自体に重大な誤りがある。さらに私はリーダーが語る専門用語を聞いたからと言って、条件反射的に献金することもない。指導者の言うことが本当に正しいのかどうか批判的に聞く耳を持っているし、たとえ指示が正しいものであると思われたとしても、それを実行するのが現実的に難しいと思った場合には従わないこともある。そして、やるべきことがあまりにも多すぎてすべてを実行できないときには、何を重要視すべきかを取捨選択するという合理的な判断をする。理想と現実には常にギャップがあり、それにうまく折り合いをつけていくのが信仰生活の実際である。大枠として信仰を維持しながら、個々の指示に対しては臨機応変に対応しているのが統一教会信者の大半であるし、指導者の言うことを信じられなくなったり批判的になったりした場合には、離教という選択をする信者もいる。これらはすべて条件反射によって行っているのではなく、個々の信者が自分の頭で考えて決断していることなのである。櫻井氏の研究の致命的な欠陥は、こうした現役統一教会信者のリアルに触れたことがなく、裁判資料や脱会した元信者の証言だけに基いて分析と理論構築を行っている点にある。

 かつて櫻井氏は、「信仰者は、教団へ入信する、活動をはじめる、継続する、それらのいずれの段階においても、認知的不協和を生じた段階で、自己の信念で行動するか、教団に従うかの決断をしている。閉鎖的な、あるいは権威主義的な教団の場合、自己の解釈は全てエゴイズムとして見なされ、自我をとるか、教団(救済)をとるかの二者択一が迫られることがある。自我を守るか、自我を超えたものをとるかの内面的葛藤の結果、いかなる決断をしたにせよ、その帰結は選択したものの責任として引き受けなければならない。」(櫻井義秀「オウム真理教現象の記述をめぐる一考察ーマインド・コントロール言説の批判的検討ー」(『現代社会学研究』1996年9 北海道社会学会)、p.94~95)と書いているが、こちらの方がはるかに真実に近い。しかし本書では、それと180度異なる議論を展開している。裁判のために、櫻井氏はかつての信念を放棄したようである。

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