書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』177


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第177回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。先回まで、中西氏がA教会で発見した任地生活の女性信者に向けた「15ヶ条の戒め」と呼ばれる心構えの分析を行ってきたが、今回から「三 現役信者の信仰生活――A郡の信者を中心に」の内容に入ることにする。この内容は中西氏のフィールドワークによる調査結果を紹介したものであり、彼女の研究の中では最も具体的でリアリティーのある部分である。彼女が韓国で出会った日本人女性の信仰生活の様子は、一言でいえば「普通」だった。これはおそらく彼女の率直な感想であり、そこに嘘や偽りはないと思われる。むしろ問題は、彼女自身の目で観察していない日本の統一教会の信仰生活を「異常」と決めつけて、それと対比しようとする構図の取り方にあると言ってよいだろう。

 初めに中西氏は、農村部A郡を事例にする理由を述べている。その最も大きな理由は、「調査期間が最も長く、B市やソウル中心部と比べて信者と接触し、日常生活と信仰生活の両面を観察できたからである。」(p.469)とされている。実際には自分が調査した対象が全体を代表するような平均的な群れであったのか、それとも「はずれ値」の特殊な群れであったのかを評価する必要があるのだが、彼女は統一教会の信仰生活の目的はどこでも同じであり、組織的な指導や教育があるので、信者の信仰生活には場所によって大きな違いはないという前提で議論を進めている。彼女の論法はいささか杜撰ではあるものの、結論としてそれほど間違っているとは思えない。日本国内でも、北海道、東北、首都圏、中部、関西、中四国、九州では、それぞれの地方の文化の違いのようなものはあるだろうが、統一教会の信仰生活そのものが大きく変化するわけではない。同じように、韓国の全羅道、慶尚道、忠清道、京畿道、江原道で土地ごとの文化の違いがあったとしても、信仰生活そのものが大きく変化するとは思えない。

 ただし、韓国では都市部と田舎では文化の差が大きく、それが信仰生活に与える影響はやはり考慮しなければならないであろう。このことは中西氏も気付いていて、「農村部のA郡の生活は都市近郊のB市、ソウル中心部と比べると閉鎖的である。A郡では信者であることを明かさずとも周囲の韓国人は『日本人女性=統一教会信者』と認識しているが、B市やソウルでは言わなければわからない。A郡の日本人女性は統一教会信者であることを周囲も自明視しているという前提の上で暮らしている。」(p.470)と述べている。

 中西氏が本書で提示している38名の調査対象者のうち、26名がA郡の信者である。この26名の特徴は、全員が女性であることと、学歴が若干低いことだ。具体的には高卒あるいは看護学校卒がほとんどで、大卒は2名、短大卒が2名である。農村部に低学歴の者が嫁ぐ傾向にあるかどうかは自分には分からないと中西氏は言っているが、私もこれは偶然であり深い意味はないと考える。大卒はソウル、高卒は農村部、などというように学歴で嫁ぎ先を振り分けるような発想はそもそも文師のマッチングにはなかったからである。むしろ、大卒の日本の女性が、学歴の無い農村の男性の所に喜んで嫁いでいくことが「美談」とされるような傾向があったくらいである。祝福双による構成は、1988年の6500双がリーダー的な存在であり、人数的には1995年の36万双が最も多く、次に1992年の3万双が多いという。

 続いて中西氏は、日本人女性信者の信仰生活についての描写を開始する。冒頭から彼女は、日本人信者の信仰生活がいたって「普通」であることを強調する。
「結論から先にいえば、八章二節の『宗教団体としての統一教会』で見た韓国人信者の信仰のあり方と同様に、日本人信者の信仰のあり方も特別なものではない。教会の様子、礼拝や行事、家庭での信仰生活などを見ていくことで、信仰生活のあり方が一般のクリスチャンとあまり変わらないことを確認しよう。」(p.471)

 この文章は、中西氏の頭の中に存在する「普通な韓国統一教会」と「異常な日本統一教会」というステレオタイプ的な枠組みに基づいている。中西氏の頭の中にある日本統一教会のイメージは、櫻井氏から提供された大量の文献と、櫻井氏自身の記述によって作り出された「虚像」である。それに対して、中西氏が韓国で出会った統一教会の信者たちは彼女が直接観察した「実像」である。彼女の研究の根本的な欠陥は、日本における統一教会信者の実態に触れたことがないため、日韓の統一教会を比較する際には、常に「虚像」と「実像」を比較しながら論じなければならない点にある。それが彼女の研究を深みの無い空虚なものにしてしまってるのである。わざわざそんな無理なことをしなくても、彼女自身が出会った「普通な韓国統一教会」と、そこで暮らす日本人女性信者の姿をそのまま描いた方がもっとスッキリすることであろう。しかし、それでは「統一教会の信仰生活は普通だ」としか言ったことにならないので、「批判的な研究」である本書の目的にそぐわないのである。

 中西氏はまずA郡の統一教会について、「礼拝堂の内部は一見したところ一般的なプロテスタント教会とあまり変わらない。異なる点を挙げれば、礼拝堂の正面に十字架ではなく統一教会のシンボルマークが掲げられていること、講壇の横に教祖夫妻の写真が掲げられ、その下に椅子二脚が置かれていることくらいである。」(p.471-2)と述べている。実はこの違いは神学の違いによるものであり、教会ごとの文化の違いよりもより本質的な違いなのだが、中西氏はその理由について深く説明していない。ここは大事な部分なので、詳しく説明しておきたい。

 キリスト教の礼拝堂に十字架を掲げるのは、十字架がキリスト教信仰における救いの核心部分をなしているからである。それは言ってみればキリスト教会のアイデンティティーのようなものであり、神学的に重要な意味がある。キリスト教の教義によれば、イエス・キリストは全人類の身代わりとして、人々の罪を背負って十字架上で死んでいったと理解されている。イエスは自分の罪を贖うために、十字架で死んでくださった。だからこそ、救いの源泉である十字架を仰ぎ見るのである。

 教会に掲げられている十字架にも色々なタイプがある。ただ十字に組んだ木だけが掲げられている場合もあれば、そこにイエス・キリストの体が描かれているもの、さらには立体的なイエスの像がぶら下がっているものもある。中にはそのイエスの像が非常にリアルなものもあって、肌色に塗られた木造の足には釘が刺さっていて、そこから血が流れているのが描かれていたり、兵士に槍で刺された傷跡がザックリと胸に描かれていたりする場合もある。これをもしキリスト教というものを全く知らない人が見たら、グロテスクで悪趣味だとしか思わないだろう。

 実際、十字架は異文化の人々にとっては非常に奇異なものであり、世界的な版図をもつ宗教の教祖の姿としては異常なものである。それはクリスチャンたちにとってはあまりに日常的なものとなっているので気がつかないのであるが、磔にして殺された教祖の像をおがんでいるというのは尋常ではない。

 統一教会には十字架がない。どこの国の本部教会へ行っても、地方の教会でも、礼拝堂に十字架は見当たらない。これをもってクリスチャンたちは「統一教会はキリスト教ではない」と言う。十字架こそキリスト教のシンボルだからだ。ではなぜ統一教会には十字架がないのか? それは十字架が見るに忍びないものだからである。クリスチャンたちは十字架につけられた救い主の姿を仰ぎ見ている。しかし統一教会の信徒たちは、「あなたはなぜ彼を十字架から降ろしてあげようとしないのですか? あなたはなぜ彼をあそこで苦しむままにさせておくのですか? もし彼を十字架につけたのがあなたであるというならば、なぜ自分の罪をかぶせたまま平気でいられるのですか?」と思うのである。

 「統一原理」は、イエスが人類の罪を背負って十字架にかかったことを否定しない。しかし、それは本来イエスが行くべき道ではなかった。人々が彼を受け入れなかったため、彼は死の道を選ぶほかはないところまで追い込まれてしまったのである。それは神の本意ではなかったが、イエスが人類をとりなすことによって、人類はかろうじて許されるようになったのだ。したがって十字架は神に対する人類の反逆の象徴であり、決して喜ばしいものではない。十字架上で苦しむイエスの姿は、人類を救済するためにあらゆる手を尽くしながらも、その人類から反逆され続ける神の姿の象徴でもある。だからこそ統一教会は今もなお十字架にかかって苦しむ神を、そこから解放しなければならないと主張するのである。

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