書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』172


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第172回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第169回から中西氏がA教会で発見した任地生活の女性信者に向けた「15ヶ条の戒め」と呼ばれる心構えの分析に入った。中西氏はこれを、日本人女性信者の合理的な判断力を抑圧し、信仰的な発想しかできないよう仕向けているかのようにとらえているが、そこで述べられている戒めは世界の諸宗教が伝統的に教えてきた内容であり、同時に人間が幸福に生きていくための心構えと言えるものも含まれている。先回は⑤原理講論を読むこと⑥不平不満を言わないこと、の二つを紹介し分析したので、今回はその続きとなる。

7.疑わないこと
 疑わないことは信じることと同義である。あらゆる宗教の経典は、疑う心を退け、信じる心を鼓舞してきた。諸経典は信仰の大切さを強調すると同時に、信仰が薄い状態や疑う心を好ましくないものとしている。以下にそのような聖句を紹介する。
「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」(ユダヤ教、キリスト教 聖書 イザヤ書 7.9)
「そこで彼らが『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(キリスト教 聖書 ヨハネによる福音書 6.28-29)
「なんじら信仰する者よ、神とかれのみ使いを信ぜよ。またみ使いに下された経典と、以前に下された経典を信ぜよ。およそ神を信ぜず、諸天使と諸経典と彼の使者たち、ならびに終末の日を信じない者は、確かに遠く迷い去った者である。」(イスラーム クルアーン 4.136)
「神に従う人は信仰によって生きる。」(ユダヤ教、キリスト教 聖書 ハバクク書 2.4)
「汝もまた信仰によって了解せよ。汝は死の領域の彼岸に至るであろう。」(仏教 スッタニパータ 1146)
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにしてくださる。」(ユダヤ教、キリスト教 聖書 箴言 3.5-6)
「神は、なんじらの信仰が好ましく、またなんじらの心の中を、それにふさわしくたまい、なんじらに不信心と邪悪と反逆を、嫌わせたもう。これは正しく導かれた者であり、神からの恵みであり、恩典である。」(イスラーム クルアーン 49.7-8)
「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(ユダヤ教、キリスト教 聖書 創世記 15.6)
「イエスは言われた『信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。』」(キリスト教 聖書 マタイによる福音書 17.20)
「なんじがもしわれの下したものについて疑いをもつならば、なんじ以前の経典を、読んでいる者に問え、確かに真理は主からなんじに来たのである。それゆえなんじは懐疑者のたぐいとなってはならぬ、またなんじは、失敗者にならぬよう、神のしるしを、虚偽だととする者のたぐいであってはならぬ。」(イスラーム クルアーン 10.94-95)
「信仰を抱き、それに専念し、感官を制御する者は知恵を得る。知識を得て、速やかに最高の寂静に達する。知識なく、信頼せず、疑心ある者は滅びる。疑心ある人には、この世界も、他の世界も、また幸福もない。」(ヒンドゥー教 バガヴァッド・ギーター 4.39-40)
「比丘が師を疑う、怪しむ、確信しない、信じない場合、その心が熱心に、専心に、堅忍に、努力に向かうことはありません。これが、そのように心が熱心に、専心に、堅忍に、努力に向かわないかれに捨てられていない第一の心の不毛です。…比丘が法を疑う…比丘が学を疑う、怪しむ、確信しない、信じないとします。…その心が熱心に努力に向かうことはありません。」(仏教 阿含経中部心i.101 不毛経)

 信仰の重要性が宗教の経典の中で強調されるのはある意味で当たり前ともいえるが、そればかりではなく、より一般的な人間の幸福にとっても信仰がプラスの役割を果たすことが最新の幸福学によって明らかにされている。慶応義塾大学大学院教授の前野隆司氏の著書『幸せのメカニズム:実践・幸福学入門』(講談社現代新書、2013年)は、既に何度も紹介した幸福学に関する解説書だが、彼は宗教的信仰を持っている人はより幸福度が上がるという調査結果を報告している。また、統一教会自体が信徒たちに対して行った「幸福度調査」によれば、統一教会信者の幸福度は平均よりも高いという結果が出ている。要するに、疑う人生よりも信じる人生の方が幸福度が高いということだ。中西氏は「疑わないこと」という戒めを、あたかも信者を抑圧する者であるかのようにとらえているが、実際にはこうした戒めは信者をより幸福にするためのものなのである。

8.祝福家庭は先輩家庭に仕え、後輩の家庭を愛すること。
 後輩が先輩に仕え、先輩は後輩の面倒を見るという考え方は、「長幼の序」という儒教的な価値観を示している。「序」は、この場合「従順」という意味である。もともと「長幼の序」とは、子どもや年少者は大人や年長者を敬い、年長者や大人は年少者や子どもを慈しむという長幼間の秩序を教えた言葉である。儒教においては、孔子の教えを引き継いだ孟子が中国の戦国時代に乱れた社会秩序や家族のあり方などを教えるために「五倫」を説いた。「五倫」とは、①父子の親、②君臣の義、③夫婦の別、④長幼の序、⑤朋友の信を指し、「長幼の序」はその中の教えの一つとなっている。日本でも江戸時代には、寺子屋などで「論語」を中心とした「儒教」を子ども教育の基本としたので、こうした考え方は日本の伝統文化にも浸透しているが、韓国ではそれが一層明確になっている。

 ここで祝福家庭は先輩に仕えると同時に、後輩を愛することも教えられていることに留意する必要がある。これは他者に対する愛情と思いやりの実践である。他者の為に生き、愛情を注ぐことの重要性は「黄金律」として、各宗教の経典で教えられている。
「何事でも人々からしてもらいたいと望むことは、人々にもそのようにせよ。(キリスト教 マタイによる福音書 7.12)
「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」(儒教 論語 巻第八衛霊公第十五 二十四)
「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな」(ユダヤ教 ラビ・ヒルレルの言葉)
「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」(ヒンドゥー教 マハーバーラタ 5:15:17)
「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」(イスラム教 ムハンマドの遺言)
「その行ないが親切であれ。(何ものでも)わかち合え。善いことを実行せよ。そうすれば、喜びにみち、苦悩を滅すであろう。」(仏教 ダンマパダ 376)

 とりわけキリスト教においては、神の愛の実践としての隣人愛の重要性が説かれており、クリスチャンが愛の共同体を形成することを勧めている。新約聖書の中で、イエス・キリストは「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」と律法学者から尋ねられて、以下のように答えている。
「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイによる福音書22:37-40)
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13.34-35)

 統一教会では、このような愛の共同体を祝福家庭の間で作ろうとしているのである。

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