書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』174


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第174回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第169回から中西氏がA教会で発見した任地生活の女性信者に向けた「15ヶ条の戒め」と呼ばれる心構えの分析に入った。中西氏はこれを、日本人女性信者の合理的な判断力を抑圧し、信仰的な発想しかできないよう仕向けているかのようにとらえているが、そこで述べられている戒めは世界の諸宗教が伝統的に教えてきた内容であり、同時に人間が幸福に生きていくための心構えと言えるものも含まれている。先回は⑨公金を恐れること、⑩聖日礼拝を欠かさないこと、⑪家庭礼拝を一週間に一度位は行うこと、の三つを紹介し分析したので、今回はその続きとなる。

12.自分を振り返る時間をもつこと
 この戒めは、「マインド・コントロール論者」にとって意外なものであるに違いない。なぜなら、彼らは統一教会のような「マインド・コントロール」を行う団体は、信者の個人的な思考、感情、行動、情報をコントロールし、教団の教えのみに意識を集中するように仕向けることによって、批判的な思考をさせないようにしたり、自己を客観的に見つめる機会を持たせないようにしていると主張しているからである。まさに、自分自身のことを振り返る余裕もないほど、特定の考えに縛られているというイメージである。しかし、中西氏がA教会で発見した任地生活の女性信者に向けた「15ヶ条の戒め」には、「自分を振り返る時間をもつこと」という項目が含まれているのである。

 これは心理学の世界では「メタ認知」と呼ばれるものである。メタ認知とは、「客観的な自己」「もうひとりの自分」などと形容されるように、現在進行中の自分の思考や行動そのものを対象化して認識することにより、自分自身の認知行動を把握することができる能力のことを言う。メタ認知的知識とは、自分自身の状態を判断するための知識を指す。メタ認知的知識をもとに自分の考えの矛盾に気づき、課題の特性を把握した上で解決方略を修正していく活動を行うことができるとされている。

 人は何かに夢中になっていたり、激しい感情にとらわれているときには、自我が前面に出ているために、自己を客観的に見つめることができない。そうした場合には、偏った考えにとらわれて失敗することが多いので、一度頭を冷やして自分自身を振り返った方がよいということは、一般的にもよく言われることだが、それを心理学では「メタ認知」と呼んだのである。統一教会の信仰生活においてこうした態度が要求されているということは、信者たちは世間一般で思われているような「マインド・コントロール」的な状態にあるわけではなく、自己を客観的に見つめる習慣を持っていることになる。実は、宗教的な生活を送っている人々は、神や仏や霊などの超越的存在から見た自己というイメージを持っているために、信仰を持たない人よりも自分自身を振り返る機会が多いのである。超越者の存在は人のメタ認知を促進する傾向があり、それは「瞑想」という行為の中に典型的に現れるのである。

 世界の諸宗教は、瞑想は心の中にある全ての障害物をきれいに取り除き、心の中に内在する究極的実在に対する目を開かせる効果があると説いてきた。瞑想は様々な形態を取り、諸経典はいくつかの瞑想法を教えている。

 ヒンドゥー教、ジャイナ教、道教、および仏教の経典は、瞑想を静かな場所に座り全ての感覚的刺激を制御し、心の中の取りとめの無い思考や感情を治め、最終的には内なる自己の本性を示す静寂の境地に至るものとして描写している。儒教の瞑想においては、この静寂は心を浄化し、事物に関する知識を公平に評価することの出来る感受性を磨くことであるとされている。

 瞑想的な修行は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教においても広く行われている。たとえばローマ・カトリックにおいては聖イグナチウス・デ・ロヨラの「霊操」と十字架の聖ヨハネの「霊魂の暗夜」は、イエスの生涯と受難の出来事について瞑想し、瞑想者の霊的修養の過程をそれらと一致させるように指導している。スーフィー派のイスラム教徒は、しばしばコーランに出ている神の最も美しい99の名前の中の一つ、もしくはいくつかに基づいて瞑想する。ユダヤ教の神秘主義者たちはトーラーの一つの節について、その隠された意味を明らかにするために瞑想する。多くのユダヤ教徒とキリスト教徒は、黙想を祈祷の為の価値ある準備として用いている。それは神との交わりの前に、心を静かで澄んだ状態にする為の沈黙の時間なのである。

 上座部仏教に特有の修行法である四念処観は、人間の心身を行き来する全ての運動、感覚、感情、思考、そして観念などをはっきりと意識することを目的としている。仏陀は「念処経」において、瞑想を通して「無常」や「縁起の法」などの宗教的真理を悟る方法を具体的に教えている。大乗仏教における瞑想は霊的なイメージ、たとえば仏陀、菩薩、浄土などのイメージを構成することである。

 ヒンドゥー教や仏教などのインド発祥の宗教は、とくに瞑想の重要性を説いてきた。その重要性はこれらの宗教の経典の中でも説かれている。
「禅定とは、心を集中して脳乱のないことであり、知恵とは、真実の意味を明確にすることです。」(仏教 龍樹 宝行王正論 437)
「正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人――そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。」(仏教 法句経 96)
「理智ある人は語と意志とを制御せよ。それを智識として自我の中に保て。智識を偉大なる自我の中において制御せよ。それを平静なる心情として自我の中に保持せよ。」(ヒンドゥー教 カタ・ウパニシャッド 3.13)
「求道者・すぐれた人々は、一切の思いをすてて、この上なく正しい目ざめに心をおこさなければならない。かたちにとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。」(仏教 金剛般若経 14)
「魂と魄を一つに統一し、離れないようにできるか。呼吸を調和集中させ、嬰児のようにすることはできるか。自分の中の曇った鏡をきれいにし、何もないようにすることはできるか。」(道教 道徳経 10)

 瞑想は宗教的な修行の一つであるだけでなく、人の心身の健康を向上させる働きがあることが近年の科学的研究によって明らかにされている。最近の瞑想に関する科学的研究は、「マインドフルネス(英: mindfulness)」という言葉に代表されている。マインドフルネスとは、今現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程であり、瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができるとされている。マインドフルネスは新しい考え方ではなく、東洋では瞑想の形態での実践が3000年あり、仏教的な瞑想に由来する。現在マインドフルネスと呼ばれる言説・活動・潮流には、上座部仏教の用語の訳語としてのマインドフルネスがあり、この仏教本来のマインドフルネスは、病気の治癒のような達成すべき特定の目標を持たずに実践される。医療行為としてのマインドフルネスは、ここから派生してアメリカで生まれたもので、特定の達成すべき目標をもって行われる。マインドフルネスは、大きくこの2つの流れに分けられる。医療行為としてのマインドフルネスは、1979年にジョン・カバット・ジンが、心理学の注意の焦点化理論と組み合わせ、臨床的な技法として体系化した。

 アメリカではマインドフルネスの効果に関する科学的・医学的な研究が進んでおり、以下のような効果があると実証されている。
1.身体面では、免疫力の改善、血圧の低下、血中コレステロール、血糖値の低下などが検証されており、交感神経と副交感神経のバランスが整い、よく眠れるようになる。
2.精神面では、緊張・うつ状態の緩和、不安の減少、ストレス耐性の向上が実証されている。
3.脳機能面では、集中力・記憶力が向上し、複数の仕事を並行して進めている状況下でも一つ一つの事に集中することができるようになり、仕事や勉強で質の高いパフォーマンスにつながる。

 中西氏がA教会の扉に貼られていたの発見した「15ヶ条の戒め」の一つである「自分を振り返る時間をもつこと」という戒めは、メタ認知、宗教的瞑想、マインドフルネスなどに通じるものであり、伝統的な宗教が実践してきたことであると同時に、信者たちの心身の健康を向上させる効果を持っていたことが分かる。

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