櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第169回目である。
「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き
「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。先回から「2 任地生活の役割」に関する中西氏の解説の分析に入ったが、任地生活の目的自体は正確に理解されていることが分かった。それは韓国人女性にとっても辛いものであるとされている「シジプサリ(嫁暮らし)」を日本人女性が始めるにあたり、日本と韓国の文化の違いを理解するための移行期間または準備期間として「任地生活」が位置づけられているということであった。「シジプサリ」の苦労がどのようなものであり、どのようなことに気をつけて乗り越えていけばよいのかを、先輩たちの経験に基づいてあらかじめ教育されてからそこに入っていくのと、まったく予備知識なしに入っていくのでは、困難の度合いは大きく異なるので、まさに親心によってこうした期間が設定されていると言える。
こうした記述の中で中西氏は、A教会で任地生活の女性が寝泊まりする部屋の扉に手書きの日本語で貼られていた「15ヶ条の戒め」と呼ばれるものを紹介している。これから家庭生活を出発する後輩に向けての心構えらしく、誰が考案したものかは不明だが、以下のような内容になっている。
1.自分を捨てること
2.驕慢になんらないこと
3.神様をまず考えること
4.真の父母様の家庭に孝行すること
5.原理講論を読むこと
6.不平不満を言わないこと
7.疑わないこと
8.祝福家庭は先輩家庭に仕え、後輩の家庭を愛すること
9.公金を恐れること
10.聖日礼拝を欠かさないこと
11.家庭礼拝を一週間に一度位は行うこと
12.自分を振り返る時間を持つこと
13.自分の家庭が誰に対しても模範となること
14.報告生活を熱心にすること
15.霊的な問題を解決すること(p.468)
私としては、なかなかよくできた15ヶ条だと思うのだが、中西氏はこれに対して以下のような批判的なコメントをしている。
「また『15ヶ条の戒め』の『自分を捨てること』『不平不満を言わないこと』『疑わないこと』は特に信仰を維持する上で重要になる。『自分を捨てること』によって自己を教団に委ね、『不平不満を言わないこと』や『疑わないこと』によって豊かでない生活や夫に対して文句を言わず、統一教会の信仰自体に疑問を持たないことになる。その他の項目も信仰維持に役立つものばかりである。任地生活の内容は入信から献身までのように体系化されたものではないが、信仰を維持、強化するための教化プログラムになっている。」(p.469)
教会の部屋の扉に貼ってある言葉が信仰維持に役立つような内容であることはある意味で当たり前なのだが、中西氏はこうした言葉が日本人女性信者の合理的な判断力を抑圧し、信仰的な発想しかできないよう仕向けているかのようにとらえている。日本での教化プログラムに比べれば体系化されていないものの、この中にも「マインド・コントロール」的なものを感じ取ったということなのだろうか? しかし、ここで述べられている内容は宗教が伝統的に教えてきた内容であり、同時に人間が幸福に生きていくための心構えと言えるものも含まれている。そこでこの「15ヶ条の戒め」が伝統的な宗教の教えと一致するものであり、かつ有益なものであることをこれから紹介しようと思う。
1.自分を捨てること
これは「自己否定」という宗教的な価値観を表している。「自己実現」や「自己肯定感」などが流行りとなっている現代社会において「自己否定」はともすれば時代錯誤の思想であると批判されるかもしれない。しかし宗教における自己否定は、本来の善なる自己を否定することを教えているのではなく、我欲、肉欲、物欲、プライド、こだわりなどに縛られた、利己的な自我を否定することを教えているのである。その意味で宗教的な自己否定は自己卑下とも自暴自棄とも異なり、本来の自己の回復を目指すプロセスなのである。現在の自己を否定することによってより高い自己に到達できるということだ。
古来よりインドの宗教は自我を捨てることを教えてきた。以下の経典の聖句はそのほんの一部である。
「すべての欲望を捨て、願望なく、『私のもの』という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。アルジュナよ、これがブラフマン(梵)の境地である。それに達すれば迷うことはない。臨終の時においても、この境地があれば、ブラフマンにおける涅槃に達する。」(ヒンドゥー教 バガヴァッド・ギータ― 2.71-72)
「名称とかたちについて、『わがもの』という思いが全く存在しないで、何ものもないからとて憂えることの無い人、-かれこそ<修行僧>とよばれる。」(仏教 法句経 367)
キリスト教における「自己否定」は、「自己犠牲」という形で表現され、自分の命に執着するものはかえってそれを失い、それをあえて捨てようとするものは最終的に与えられるという表現で、自己犠牲を説いている。
「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」(ヨハネによる福音書 12:24-25)
「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。」(ルカによる福音書 17:33)
2.驕慢にならないこと
カトリック教会の「七つの大罪」には、物欲(貪欲)、ねたみ(嫉妬)、怒り、色欲(肉欲)、貪食、怠惰と共に、「高慢」が含まれている。旧約聖書の『箴言』には、驕りと高ぶりに対する警告が多く記されている。
「主を恐れるとは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、偽りの言葉とを憎む。」(8:13)
「すべて心に高ぶる者は主に憎まれる、確かに、彼は罰を免れない。」(16:5)
「高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ。へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる。」(16:18-19)
「高ぶる目とおごる心とは、悪しき人のともしびであって、罪である」(21:4)
新約聖書には謙遜の重要性を説いた聖句が多く存在するが、そのうちの一つだけを紹介する。
「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」(ピリピ人への手紙 2:3)
仏教においては、人間が不浄で愚かな存在であることを説き、そのことを悟れないでいる状態こそが傲慢であると教えている。
「人間のこの身体は不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは盲者でなくて何だろう。」(仏教 スッタニパータ 205-06)
「もし愚者がみずから愚かであると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、『愚者』だと言われる。」(仏教 法句経 63)
ソクラテスの「無知の知」のような内容が仏教の経典でも説かれているわけだ。多くの宗教は「柔和と謙遜」を美徳とし、傲慢にならないよう教えている。15ヶ条の2番目は、こうした普遍的な教えと同じことを説いているのである。