神道と再臨摂理シリーズ08


 神道は日本の土着の信仰ですが、その歴史を概観してみれば、仏教や儒教などの外来の思想や宗教から影響を受けてきたことが分かります。縄文時代から現代に至るまで、神道が歩んできた歴史的な変遷と、それに影響を与えた他の宗教や思想の関係を一つの表にまとめると以下のようになります。

図08-1

 この図を見ると、一つの興味深い「繰り返し現象」を見ることができます。鎌倉時代に両部神道や法華神道が出現しますが、これは真言密教や法華宗の立場から神道を解釈した「仏家神道」でした。それと同じ時代に伊勢神道が出現しますが、こちらは神道側から教義を説いたもので、「神主仏従」の立場をとっています。江戸時代の前記には儒教の視点から神道を説いた「儒家神道」が出現しますが、江戸後期に入ると国学が盛んになり、「復古神道」が説かれるようになります。

 どんな宗教も、他の伝統とまったく交わらない孤立無援の状態で存在するわけではなく、他の思想や宗教との交流の中で発展していくとすれば、その影響を受けて変化していくことは避けられません。こうしたプロセスが一通り進行すると、他の思想や宗教からの影響を「不純」なものとして排斥し、「原点回帰」しようとする傾向が現われるようになります。カトリックに対するプロテスタントの出現も、リベラリズムに対抗して出現したファンダメンタリズム(根本主義)も、キリスト教信仰における一種の「原点回帰」ということができます。同様に、神仏習合や儒家神道といった外来思想との混合状態から、国学の影響を受けて「復古神道」が現われたのも、一種の「原点回帰」の現象ととらえることができるでしょう。

<神道の起源と成立>

 これから、上記の表に記された神道が古代から現代に至るまで歩んできた歴史的な変遷を細かく解説していきます。神道を日本の土着の信仰と定義するならば、それは縄文時代から存在していたということができますが、制度化された宗教として成立するのは律令体制が進んだ7世紀後半ということになります。したがって、それ以前の時代を「神道以前」と呼ぶことにします。具体的には、縄文時代から弥生時代までを指します。

 縄文時代には、さまざまな神々が人々によって崇拝されていました。これは「カミ」と呼ばれる以前の、山や森や獣の精霊のような存在です。縄文人は狩猟採集民であったので、イカズチ(雷)の「チ」、コダマ(木霊)の「タマ」、物の怪(モノノケ)の「モノ」と「ケ」といった存在を信じていました。

 やがて、鉄器と稲作技術を持った弥生人が移住してくると、日本は狩猟文化から農耕文化へと以降していきます。弥生時代の神は、「農耕神」といってよい存在でした。作物に豊穣をもたらす太陽神や農耕神を祀ることが信仰の中心となったのです。このときに神道の基盤が形成されました。皇室の重要な祭祀に 新嘗祭や大嘗祭などの稲作にまつわる儀式があることからも分かる通り、神道の基本には稲作があるのです。

 今日「神道」と呼ばれる体系が確立したのは、律令体制が進んだ7世紀後半でした。この頃、大和朝廷は唐にならって律令制を導入し、奈良時代初期には「大宝律令」が施行されました。大陸にならって政治の面における制度が確立されるのと同時に、宗教的な制度も確立されていきました。当時は「祭政一致」であったため、政治と宗教は表裏一体であったと言えます。

 ここで、古代の「神祇制度」の特徴をいくつか挙げてみましょう。
①神社の「社格」が定められる:有力神社は「式内社」と呼ばれ、ランク付けがなされました。
②神祇官が定められる:これは諸国の官社を統括管理するための国政の機関です。
③二十二社制度の確立:近畿地方を中心に、朝廷の特別の崇敬を受けた神社の社格のことです。
④神祇関連の法律の制定

<日本における神道と仏教>

図08-2

 今日「神道」と呼ばれる体系が確立したのは、大和朝廷が唐にならって律令制を導入した時代でした。これは大陸の進んだ政治制度を取り入れるということでしたが、それと同時に入ってきたのが大陸の進んだ宗教である仏教でした。日本への仏教公伝は538年でした。「公伝」というのは、公式ルートで伝わったということです。私的にはそれ以前に渡来人などと共に伝わっていました。

 仏教は朝鮮半島から伝わってきました。百済の聖明王が、仏像一体と仏教の経典などを日本の欽明天皇に送ったのです。欽明天皇としては、仏像と経典を受け取ったのですが、どうしようかということで、周りにいた貴族たちに相談しました。すると、その貴族たちの意見が二つに分かれたわけです。一方を「崇仏派」といって、大陸や朝鮮半島でも仏教を敬っているのだから、日本でも仏を祀ろうと主張した人々です。この勢力は、蘇我氏を中心としていました。それに対抗して仏を祀ることに反対する「廃仏派」と呼ばれる勢力があり、物部氏を中心としていました。このように仏教を受け入れるか受け入れないかで対立しました。

 蘇我氏はもともと渡来系の氏族ですから、仏教になじみがありました。それに対して、物部氏はもともと日本古来の祭祀を行っていたので、「外からやって来た神を拝むわけにはいかない。日本には多くの神々がいるのだから、新しい神を拝めばきっと祟りが起こる」と言って反対したのです。当時の日本人の感覚では、仏は海の向こうからやって来た神であるととらえられました。このような神はマレビト神(客神)と呼ばれ、突然やって来た客神は得体のしれない存在であり、恐ろしい存在と思われていたのです。

 このように、しばらく崇仏派と廃仏派が争ったわけでありますが、最終的には仏教を敬う方が勝っていくことになります。こうして仏教を柱とした国づくりが始まっていくわけです。しかしだからといって、日本古来の信仰である神道が、大陸から伝わった仏教によって駆逐され、取って代わられることはありませんでした。仏教の影響を受けて神道が制度化されると同時に、仏教もまた神道の影響を受けて日本化していくという、「共存」の道をこの二つの宗教は歩むことになったのです。

 仏教が日本に受容される過程において、土着の信仰である神道としだいに融合していき、神と仏を一緒に祀るようになった現象を、「神仏習合」といいます。

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