宗教と万物献祭シリーズ01


伝統宗教における万物献祭①

先回まで続いた「日本人の死生観と統一原理」のシリーズに続いて、今回から「宗教と万物献祭」のシリーズが始まります。そもそも、この二つをテーマとして扱う動機となったのは、統一教会に対する代表的な批判の一つである「霊感商法」について、どのように説明するかという問いかけです。3月14日の投稿で論じたとおり、「霊感商法」の問題は突き詰めて考えれば「あの世や死後の世界」の問題と、「献金やお布施」の問題に集約されます。

そこで前シリーズの「日本人の死生観と統一原理」では、「あの世や死後の世界」の問題について日本人がどのように考えてきたかを明らかにすることにより、こうした世界の存在を信じることが日本の宗教伝統に反するものではなく、むしろ伝統的な日本人の死生観に含まれていることを明らかにしてきました。すなわち、「霊界」を信じること自体は異常なことでも何でもありません。

続いてこのシリーズでは、宗教における供え物、献金、布施、喜捨などを一括して「万物献祭」と呼び、こうした行為が伝統宗教においても新宗教においても広く行われており、信仰者の義務あるいは美徳として高く評価されてきたことを明らかにすることにより、宗教的動機でお金を捧げること、ならびにそれを勧めること自体は、なんら異常なことでも社会的指弾を浴びることでもないことを明らかにしていきます。それに付随して、新宗教にビジネスモデルについても検討を加えます。

第一回目の今回から三回にわたり、伝統宗教における万物献祭について分析します。ユダヤ・キリスト教の伝統においては、旧約時代の犠牲(供物)、新約時代の献金、仏教では布施(財施)や喜捨、神道ではお供え、初穂料と玉串料、お賽銭、イスラム教におけるザカートとサダカ(日本語訳はいずれも「喜捨」)など、伝道宗教における万物献祭の例は枚挙にいとまがありません。

 

神道の玉串料・初穂

神道の玉串料・初穂

仏教のお布施

仏教のお布施

キリスト教の献金

キリスト教の献金

 

 

 

1.不幸の原因としての物欲、貪欲

伝統宗教における万物献祭の意義は第一に、不幸の原因としての物欲、貪欲の否定にあります。全ての主要宗教は、苦しみや悪は過度の欲望もしくは利己的な欲望によって引きおこされると教えています。そこには貪欲が魂を支配し、無知を誘発し、破滅へと導くという基本思想があります。また全ての主要宗教は、富と所有物に対する執着は霊的成長を阻む足枷であるとみなし、救済を得るためには富と所有物を放棄することが必要であると教えています。

以下に示す「仏教の十戒」は、基本的に人間の欲望を否定し制限するものですが、その10番目がお金や財産にかかわる欲望の否定です。

①不殺生(ふせっしょう):生き物を殺してはならない。

②不偸盗(ふちゅうとう):盗んではならない。

③不淫(ふいん):性行為をしてはならない。

④不妄語(ふもうご):嘘をついてはならない。

⑤不飲酒(ふおんじゅ):酒を飲んではならない。

⑥不塗飾香鬘(ふずじきこうまん):世俗の香水や装飾(貴金属)類を身に付けてはならない。

⑦不歌舞観聴(ふかぶかんちょう):歌や音楽、踊りや映画等を鑑賞してはならない。

⑧不坐高広大牀(ふざこうこうだいしょう):膝よりも高い寝具や、装飾を伴うベッドに寝てはいけない。

⑨不非時食(ふひじじき):食事は一日二回で、それ以外に間食をしてはいけない。

⑩不蓄金銀宝(ふちくこんごんほう):お金や金銀・宝石類を含めて、個人の資産となる物を所有してはならない。

仏教のみならず、伝統宗教の聖句の中には、金銭や財産に対する欲望が不幸の原因であり、それに対する執着を否定することが悟りや救いに対する道であることを説いたものが多数あります。その中の代表的なものを以下に紹介します。

ひとが、田畑、宅地、黄金、牛馬、奴婢(ぬひ)、僱人(やといにん)、婦女、親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊(やぶ)れた船に水が浸入するように。それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。 (仏教、スッタニパータ 769~771

欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。(仏教、スッタニパータ 773

たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。(仏教、スッタニパータ 186

彼岸にわたることを求める人々は享楽に害(そこな)われることがない。愚人は享楽のために害われるが。享楽を妄執するがゆえに、愚者は他人を害うように自分をも害う。(仏教、スッタニパータ 355

凡夫の執着する欲望と貪りとを離れて、眼ある人は道を歩め。この地獄を超えよ。(仏教、スッタニパータ 706

ああ、富に溺れた愚かな私の魂よ、いつおまえは富を追い求める欲望から解放されるのか? 私は自分自身の愚かさを恥じる! 私はおまえのおもちゃであった。・・・富を追い求める欲望は、決して幸福をもたらすことは出来ない。(ヒンドゥー教、マハバーラタ・シャーンティ・パルヴァン 177)

欲望、怒り、貪欲。これは自己を破滅させる、三種の地獄の門である。(ヒンドゥー教、バガヴァッド・ギーター 16.21

災いなるかな、・・・富を積んで計算するのに余念のない者、まことに富は、かれを永久に生かすと考えている。(イスラム教、コーラン 104.1-3

金を好む人は罪を避けられず、金儲けに走りまわる人は、そのために悪事を行う。黄金のいけにえになった人は多く、その滅びは目に見えていた。金は、愚か者には罠であり、思慮なき人はそれにかかる。(ユダヤ教 シラ書31:5-7

金銭を愛することは、すべての悪の根である。(キリスト教、テモテへの第一の手紙 6.10

あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。 (キリスト教、ルカ 6.20

イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。(キリスト教、マタイ 19.21-24

だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。(キリスト教、マタイ 6.24

次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。(キリスト教 マタイ 4:8-11

ある金持が言った、「・・・たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」(キリスト教、ルカ12:31-34

あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。(キリスト教、マタイ 6.19-21

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