書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』171


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第171回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。先回から中西氏がA教会で発見した任地生活の女性信者に向けた「15ヶ条の戒め」と呼ばれる心構えの分析に入った。中西氏はこれを、日本人女性信者の合理的な判断力を抑圧し、信仰的な発想しかできないよう仕向けているかのようにとらえているが、そこで述べられている戒めは宗教が伝統的に教えてきた内容であり、同時に人間が幸福に生きていくための心構えと言えるものも含まれている。先回は③神様をまず考えること④真の父母様の家庭に孝行すること、の二つを紹介し分析したので、今回はその続きとなる。

5.原理講論を読むこと
 統一教会においては長らく経典を「聖書」としてきた時代があった。原理講論は経典ではなく、教理解説書という位置づけであった。ただし、統一教会の信徒たちは原理講論を講師が黒板で説明した「原理講義」を聞くことによって伝道された者が多く、聖書以上に熱心に原理講論を読む習慣があった。したがって、原理講論はかなり以前から事実上の経典としての役割を果たしてきたと言ってよいであろう。そこに書いてあることは文字通りの真理であると受け取られてきた。2010年代に入って、文鮮明師は「八大教材教本」という概念を打ち出し、それは①文鮮明先生御言選集、②原理講論、③天聖経、④家庭盟誓、⑤平和神経、⑥天国を開く門真の家庭、⑦平和の主人血統の主人、⑧世界経典、の8種類の書籍によって構成されるものであった。したがって、現在は原理講論は家庭連合における経典の一つに数えられているととらえてよいであろう。

 経典を学習することは信仰生活の基本であり、それはあらゆる宗教に共通している。そのことは以下のように、各宗教の経典自身が証している。
「〔ヴェーダの〕学習を怠ることなかれ。」(ヒンドゥー教 ターイッティリーヤ・ウパニシャッド 1.11.1)
「私はあなたの律法を/どれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。(ユダヤ教、キリスト教 聖書 詩編 119.97)
「まことにそれは偉大な経典であり、虚偽は、前からも後ろからも、近づくことはできぬ。それは、英明な方・賛美すべき方からの明示である。」(イスラム クルアーン 41.41-42)
「法華経を読誦する者があったら、この人は仏の飾りをもって自分を飾る人であると知れ。それは如来を肩にかついでいることになる。」(仏教 法華経 10)
「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(ユダヤ教 聖書 申命記 6.5-9)
「われは真理によってクラーンを下したので、真理によってそれは下った。そしてわれは、吉報の伝達者または警告者として、なんじらをつかわしたのみ。これはわれが明白にしたクラーンで、なんじをしてゆっくりと人びとに、読誦させるためで、少しずつこれを啓示した。言え『おまえたちがクラーンを信じても、また信じなくても、以前に知識を賜わった者たちは、かれらに対して読誦されるとき、必ずその顔を伏せて叩頭する、そして、祈って言う「わたしたちの主の栄光をたたえまつる。まことに主のお約束は果たされました」』。かれらは涙を流して顔を地に伏せ、謙譲のまことをつのらせる。(イスラム クルアーン 17.105-9)
「君子は過去の聖賢の言行を多く認識し、その徳を畜養することにつとめる。」(儒教 易経26 周易上経 大畜)

 キリスト教においては、聖書を読むことは信仰生活の基本であり、できれば毎日読むことが推奨されている。熱心なクリスチャンは、毎日三章ずつ聖書を読み、一年に一回通読することを実践している。それは毎日「肉の糧」として食事をするのと同じように、「霊の糧」として信仰的な栄養を摂取することであると捉えられてきたのである。イスラム教の経典はアラビア語で「アル=クルアーン」と言う。「アル」は定冠詞で、「クルアーン」には「声に出して読むもの・こと」という意味がある。したがって、クルアーンは本来黙読するものではなく、読誦するべきものである。クルアーンの読誦はムスリムの信仰生活の根幹をなすものである。ユダヤ教徒たちも聖書を読むことを日課としている。私はエルサレムを訪問したときに、熱心なユダヤ教徒たちが「嘆きの壁」で頭を振りながら聖書を読誦している姿を見た。これと同じように統一教会の信徒たちは原理講論を読むことを信仰生活の基本としてきたのである。

6.不平不満を言わないこと
 この「不平不満を言わないこと」は「感謝すること」と同義であり、あらゆる宗教が説いてきた信仰的態度である。もちろんそこには、たとえ心の中に不平不満があったとしても、口に出して言わないという消極的な意味も含まれる。これは不平不満というネガティブな感情を口に出して表明すれば、それを自分自身が聞いてさらにネガティブな思いが増すのと同時に、他人をもネガティブな思いにさせる効果があるため、口に出すことを避けるということである。しかし、より積極的な意味は自分の心の中にある不平不満というネガティブな感情そのものを克服して、感謝の思いに変えるということである。これを意識的に行うことを多くの宗教が教えている。
「そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべての主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(キリスト教 聖書 コロサイの信徒への手紙 3.17)
「信仰する者よ、わしがなんじらに与えた、よいものを食べよ、もしなんじらがほんとうに、神に仕えるのであれば、かれに感謝せよ。」(イスラム クルアーン 2.172)
「比丘衆よ、不善士は恩を知らざること及び恩に感ぜざることは不善士の称讃する所なり。比丘衆よ、善士は恩を知ること及び恩に感ずることは善人の称讃する所なり。」(仏教 阿含経増支部 i.61)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(キリスト教 聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5.16-18)
「さあ、子供たちよ、りこうぶるふるまいを捨てて、神のみたまが幸福を与えるその神の仕事をお助けしよう。食物もいろいろの草木も、天照大神の恵みがなければ成育せず 得られないものである。朝に夕に、食事をするたびに、 みけつ神である豊受大神の恵みを思い感謝しなさい。世の人よ。天地の神の恵みがなかったならば一日一夜たりといえども過ごすことができようか。世々の先祖のご恩を忘れるのではない。代々の先祖は自分の氏神であり、自分の家の神である。父母は自分の家の神、私の神と心を尽くして敬いつかえよ。人の子たるものよ。」(神道 本居宣長 玉鉾百首)

 日々の生活の中で感謝することは宗教が教えているだけではなく、最近の幸福学の研究によっても、人が幸福になるための大切な要因の一つであると考えられている。慶応義塾大学大学院教授の前野隆司氏の著書『幸せのメカニズム:実践・幸福学入門』(講談社現代新書、2013年)は、最新の幸福学の成果に関する易しい解説書だが、その中で前野氏は幸福と相関関係にある様々な要素について分析を行っている。前野氏の研究グループが日本人1500名に対してアンケート調査を行い、幸せの心的要因を因子分析した結果、以下のような4つの因子が浮かび上がってきた。要するにこうした特性を持っている人はより幸せになる傾向があるということだ。
第一因子「やってみよう!」因子(自己実現と成長の因子)
第二因子「ありがとう!」因子(つながりと感謝の因子)
第三因子「なんとかなる!」因子(前向きと楽観の因子)
第四因子「あなたらしく!」因子(独立とマイペースの因子)
(以上、前野隆司著『幸せのメカニズム:実践・幸福学入門』p.105-111)

 この中では第二因子が「感謝」に直接かかわる因子だが、そのさらに細かい構成要素として前野氏は以下の四つをあげている。
・人を喜ばせる(人の喜ぶ顔が見たい)
・愛情(私を大切に思ってくれる人たちがいる)
・感謝(私は、人生において感謝することがたくさんある)
・親切(私は日々の生活において、他者に親切にし、手助けしたいと思っている)

 中西氏は、「6.不平不満を言わないこと」という戒めを、単に豊かでない生活や夫に対する不満を封じ込めるためであるかのように解釈しているが、人は生活の中でより多くのことに感謝しようと心掛けた方がより幸福になることを最新の幸福学は教えているのである。信仰のあるなしに関わらず、人生には自分の思い通りにいかないことが多い。問題はそれをどう受け止めるかである。身の回りの世界に対して不平不満というネガティブな感情を抱いて生きるのか、感謝というポジティブな感情を抱いて生きるのかによって、その人の幸福度は大きく変化する。したがってこの戒めはまさに、統一教会の女性信徒を幸せにする役割を果たしていると言えるのである。

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