日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ06


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 ようやく、本題である日本までたどり着きました。この年表は「日本仏教の偉人たち」というタイトルが付けられていますが、最澄、空海、法然、親鸞など、お坊さんを中心として仏教の歴史が語られることが多いです。この表の真ん中あたりに多くの名前が登場しますが、実は12世紀から13世紀にかけて非常に有名なお坊さんがたくさん出ております。これは日本でいうと平安時代の末期から鎌倉時代に該当する時代ですが、皆さんは「鎌倉新仏教」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? この時代が、実は日本の仏教では最も創造的な時代であり、新しい宗派が生まれたり、非常に高名なお坊さんが現れたりしています。では、江戸時代以降はどうかというと、新しい宗派はほとんど生まれておりません。

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 お坊さんを中心として仏教を語るやり方のほかに、仏教を保護した政治家を中心として語るという方法もあります。日本の仏教における最大の功労者と言われるのは、やっぱり聖徳太子です。飛鳥時代に日本に本格的に仏教を取り入れて、日本仏教の基礎を作った人として知られていて、仏教徒であれば誰でも聖徳太子を敬います。次に登場するのが聖武(しょうむ)天皇で、東大寺と奈良の大仏を作った方です。それから、藤原道長という人は、平安時代に仏教をあつく保護したことで有名です。さらに時代が下れば、徳川家康は本末制度や檀家制度を作ることにより、仏教によって国を統治した人であります。いま日本に存在している仏教の形を最終的に作ったのは、徳川家康ということになります。

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 さて、日本仏教の始まりなんでありますが、日本への仏教公伝は538年になります。「公伝」というのは、公式ルートで伝わったということです。私的にはそれ以前に渡来人などと共に伝わっていたということですね。仏教は朝鮮半島から伝わってきました。百済の聖明王が、仏像一体と仏教の経典などを日本の欽明天皇に送ったわけです。欽明天皇としては、仏像と経典を受け取っちゃったんだけど、どうしようかということで、周りにいた貴族たちに相談したんですね。すると、その貴族たちの意見が二つに分かれたわけです。一方を「崇仏派」といって、大陸や朝鮮半島でも仏教を敬っているのだから、日本でも仏を祀ろうと主張した人々です。この勢力は、蘇我氏を中心としていました。それに対抗して仏を祀ることに反対する「廃仏派」と呼ばれる勢力があり、物部氏を中心としていました。このように仏教を受け入れるか受け入れないかで対立したわけです。

 蘇我氏というのは、もともと渡来系の氏族でありますから、仏教になじみがあったわけです。それに対して、物部氏はもともと日本古来の祭祀を行っていたので、外からやって来た神を拝むわけにはいかない、という感覚で反対したわけです。当時の日本人の感覚では、仏は海の向こうからやって来た神であるととらえられました。このような神はマレビト神(客神)と呼ばれ、突然やって来た客神は得体のしれない存在であり、恐ろしい存在と思われたわけです。このように、しばらく崇仏派と廃仏派が争ったわけでありますが、最終的には仏教を敬う方が勝っていくことになります。こうして仏教を柱とした国づくりが始まっていくわけです。

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 587年に蘇我氏が物部氏を滅ぼして、大和朝廷は本格的に仏教を受け入れるようになります。外来宗教である仏教が日本古来の宗教よりもはるかに高度で強力な宗教であることが分かると、豪族ごとの勢力に分裂していた当時の日本を統一するための力として、この仏教を用いようと試みるようになったわけです。大陸には最新の文化があり、律令制度があったわけですが、そられと一緒に仏教を統一国家のイデオロギーとして受け入れて行ったわけです。ですから、日本が最初に仏教を受け入れていった動機というのは、極めて国家次元の動機であって、国を統一するための新しい理念として受け入れていったわけです。このようにして、仏教を中心とした中央集権型の国家建設に着手しました。その主導的な役割を果たしたのが聖徳太子です。

 聖徳太子は、推古天皇の摂政として蘇我氏とともに活躍した人物です。彼は、朝鮮半島から高僧を招いたり、遣隋使で留学僧を派遣したりして、仏教文化を日本に定着させようとしました。聖徳太子自身が非常に仏教を深く学び、仏教経典の解釈書を書いたり、寺の建立を積極的に行いました。法隆寺や四天王寺は有名ですね。また、有名な「十七条憲法」の背後には仏教思想があると言われています。

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 このように、国の柱として仏教が取り入れられて、やがて平城遷都ということになりますと、仏教の中心的な役割は「鎮護国家」、すなわち国を守り安定させるための宗教という意味合いが強くなっていきます。701年の僧尼令により、僧侶は鎮護国家を第一とする官僧になります。「官僧」とは、政府に雇われた僧であって、最初のお坊さんは国家公務員だったんですね。つまり、国の安全を守るためにお祈りすることが仕事だったんです。当時、国家から正式に認められた「南都六宗」が日本最初の宗派として存在していました。これはいまのような信仰集団ではなくて、仏教の理論を研究するグループであったようです。この人たちの役割は、遣唐使などによってもたらされた経典を読み解き研究することであって、いわば大学の教授のグループのようなものであると同時に、国家の安泰を祈る役割も持っていました。華厳宗(けごんしゅう)、律宗(りっしゅう)、法相宗(ほっそうしゅう)、倶舎宗(くしゃしゅう)、三論宗(さんりんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)が「南都六宗」で、このうちピンクで示した上の三つだけがいまも「奈良系仏教」として存在しています。その中で「律宗」というのが、日本に初めて戒律をもたらした鑑真という人が開いた、日本最古の宗派です。唐招提寺が有名ですね。

 当時の僧侶は「官僧」であり、国家公務員だったわけですから、天皇の許可を得ずに勝手に僧尼になってはいけないことになっていました。でも実際にはそうする人たちがいて、そのような僧を「私度僧(しどそう)」といって、違法な存在として弾圧の対象になりました。このように、奈良期の僧侶は国家公務員としての性格が強かったわけです。

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 こうした奈良仏教のピークが東大寺の大仏建立と戒壇設立になります。これを推し進めたのが聖武天皇です。彼は737年に国分寺と国分尼寺創設の詔を出し、743年に大仏建立の詔を出します。国家の安泰のために大仏を建てるんだと宣言したわけです。しかし、実は当時の財政は逼迫しておりまして、政府の予算だけでは大仏を建てられなかったんですね。そこで活躍したのが行基という人だったんです。この人は日本地図を書いたことでも有名ですが、実は行基は官僧ではなくて私度僧だったんです。彼は民衆にものすごく人気があり、民衆に対する影響力が大きくて、いろんな福祉事業や公共事業をやっていたものですから、仕方なく聖武天皇は私度僧である行基に頼り、大仏を建てるための布施を集めてほしいと頼んだわけです。こうして行基が大仏建立の意義を説いて回り、お金を集めて来たので、結果的に752年に大仏が完成します。残念ながら行基自身は749年に大仏の完成を見ることなく死去してしまいます。

 そして753年には、有名な鑑真というお坊さんが6回目の航海で日本に到着します。彼は日本に戒律をもたらすために何回も渡航を試みては失敗し、盲目になった状態でようやく日本に辿り着くわけです。そして、日本初の正式な戒壇が奈良の東大寺に設けられることになります。なぜ鑑真を日本に呼ぶのが重要だったかというと、仏教の正しい修行はまず「戒」から始まるものであり、仏教の僧侶に正式なった人がその弟子に「この戒めを守りなさい」といって戒律を授けないといけないわけです。その戒律を授ける資格のある人が当時はまだ日本に誰もいなかったわけですから、中国から呼んでこなければならなかったわけです。

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