神道と再臨摂理シリーズ11


 今回は「国家神道」に関する基本的な事実を紹介します。国家神道とは、明治政府が中央集権国家の確立を目的として、天皇中心の祭政一致国家を建設するために形成した国家の宗祀(そうし)のことです。国家神道は途中で大きく方向性を転換させたため、それを前後して大きく性格が異なります。

 明治政府は、天皇を中心とする国家建設を目指しましたが、その基盤となる尊王思想を普及させるため、神祇官を復活させ、さらに神祇官の中に布教を担当する宣教使を置きました(明治2年)。続いて、「大教宣布の詔」(明治3年)が発布され、「治教を明らかにして惟神の道を宣揚すべし」という理念が打ち出されました。

 明治5年には、神祇官は教部省に改組され、神道家、神職のみならず、僧侶も教導職として動員されるようになりました。彼らの役割は、①敬神愛国、②天理人道、③皇上奉戴、朝旨遵守(天皇陛下を崇め奉り、朝廷の意向を遵守すること)という「三条の教則」に基づいて講義・説教を行うことでした。これは言ってみれば、国家公務員が神道という宗教の教えを国民に説教して回るということです。

 しかしこの試みは、国内においては仏教界の反発、さらに欧米からのキリスト教弾圧停止要求も重なってうまくいかず、挫折してしまいます。結果として「国家神道」は大きな方向転換をすることになります。明治17年に教導職が廃止され、国家が神道の教えを積極的に国民に広めるということはなくなります。

 代わりにどのような考え方が登場したかと言えば、神社とその祭祀は「国家の宗祀」であって、「神社は宗教にあらず」という解釈でした。その結果、官社の神官たちは国民の教化活動から撤退し、葬儀に関与することも禁止されるようになりました。明治政府の主張は、神社参拝は「国家の宗祀」であって、愛国心の発露のようなものであり、宗教ではないので、これを国民に要求することは信教の自由の侵害には当たらないというものでした。しかし、クリスチャンから見ればそれはあくまで神道の神を拝むことであり、キリスト教で禁じている偶像崇拝にあたるのではないかという懸念は残ったのです。

教育勅語

 こうした懸念を背景にして起きた事件が明治24年に起きた「内村鑑三不敬事件」でした。内村は神社参拝を拒否したことで不敬とされたのではありませんが、キリスト教信仰と愛国心と偶像崇拝の微妙な関係という点では、問題の本質はよく似ています。当時、天皇陛下の教育に関するお言葉として「教育勅語」が発布されました。教育勅語は一枚の紙に記されて、明治天皇の宸署が記されていました。この教育勅語は額に入れられて学校の講堂に掲げられ、その前で全校生徒ならびに職員一同が深々と敬礼をするという愛国的行事が、教育の一環として行われました。

 内村鑑三は東京の一高というところで教師をしていたのですが、全員が深々と頭を下げているときに、彼だけは敬礼を拒否して頭を下げなかったのです。これは天皇陛下を冒涜しようという意図があったわけではなく、この拝むという行為が、礼拝に当たるのではないかと危惧されたわけです。モーセの第一戒「汝の創造主である神以外に何者も神としてはならない」とあるように、唯一神である神以外のものは一切礼拝してはならないというのがキリスト教の大原則です。それに基いて、「これは礼拝行為ではないのだろうか。私にはそれはできない」ということで躊躇して、頭を下げなかったということなのです。

 それを目撃した周りの人々は、「何で彼は天皇陛下の宸署に対して頭を下げないんだ! 非国民だ! 不敬罪だ!」ということで、大騒ぎになったわけです。そして、「何故彼は頭を下げなかったのか? それはクリスチャンだからだ。そもそもクリスチャンというやつらは非国民なんだ」という議論が始まってしまいました。これがキリスト者の忠誠に関する国家的次元の論争にまで発展して、いわゆるナショナリズムの復活の中で、キリスト教は一種の「スケープゴート」のような役割を担わされるようになってしまいました。

 「国家の宗祀」としての国家神道が確立されて以降、神社参拝は愛国心や殉国者の鎮魂と深く結びついていきます。維新の内乱に殉じた人々を祀る「東京招魂社」(明治2年)が明治12年に「靖国神社」と改称され、国難に殉じた人々を祀る神社として崇敬を受けるようになりました。これを受け、全国各地でも「招魂社」が「護国神社」に改称しました。また日本人の海外移住に伴い、朝鮮半島、台湾、中国各地、サイパン、パラオ、ハワイなどに神社を創建するようになりました。

東京招魂社と朝鮮神宮

 国家神道を「皇室との関係」という視点から分析すれば、それは「天皇家の宗教が神道に限定された」ということにほかなりません。このことは、明治以前には天皇家の宗教は必ずしも神道に限定されていなかったことを意味しています。

 もともと、神道は天皇家と深いつながりのある宗教でした。古事記が編纂された目的は、天皇の正統性を語り、天皇家の歴史を残すことにあったといわれています。一方、日本書紀は文字として国家の歴史を残すことで、大和朝廷の権威付けを行い、日本という国の正統性を、当時の外国であった唐や朝鮮半島に向けて訴える目的があったといわれていますが、それも天皇を中心とする国家であることを国外に示すことが目的でした。

 そして記紀の神話の目的は、神々に関する物語が最終的に皇室に繋がっていることを示すことにより、天皇の正統性と権威を示すことにありました。その神話の世界と皇室を結ぶ証拠物が「三種の神器」です。三種の神器は、天皇が皇位の璽(しるし)として代々伝えた三種の宝物です。記紀の伝承によれば、天照大御神がこれら三種の神器を孫の邇邇芸命に与え、それが皇室に伝えられたことになっています。

 このように、天皇家と神道のつながりは疑いえないほどに強いのですが、それでも歴史的に天皇家の宗教が純粋に神道だけであったとは言えないのです。明治時代以前の天皇家においては、日本人全般がそうであったように、神道と仏教を中心に儒教、道教、陰陽道などのさまざまな信仰が習合した形で受け継がれていました。

 平安時代末期から鎌倉時代にかけては、天皇が皇位を譲って上皇となり、上皇が出家して法皇となることが多く、天皇と仏教寺院は深く結びついていました。したがって、天皇家は歴代、神道と共に仏教もまた篤く信仰してきたといえるのです。

 しかし明治時代に入ると、神仏分離の流れの中で天皇家に対してもそれが求められるようになり、新たに「皇室祭祀」が営まれるようになりました。宮中には賢所(かしこどころ)、皇霊殿、神殿からなる「宮中三殿」が設けられ、天皇は祭祀の役割をするようになったのです。

 これは明治維新の背景にあった「復古神道」の思想に基づき、神道から外国の影響を排除して原点に戻るという考え方を実行したことになります。ですから、「神仏習合」の状態から仏教を分離することにより、神の子孫とされる天皇の権威を復活させるために、天皇家の宗教もある意味で「人為的に」神道に限定されるようになったと言えるのです。そしてこれは、明治期以降に特異な状態であるといってよいでしょう。

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