神道と再臨摂理シリーズ10


 仏教が日本に受容される過程において、土着の信仰である神道としだいに融合していき、神と仏を一緒に祀るようになった現象を「神仏習合」と呼ぶことは既に説明しましたが、これは思想的に①神身離脱説、②本地垂迹説という二段階で発達しました。①においては日本の神は仏教によって救われるべき低い存在であるとされましたが、②においては日本古来の神々は仏が衆生救済のために姿を変えて顕われた存在であるとされ、日本の神々の位置が高められました。

<神本仏迹説の神道>
 これがさらに発展すると、その関係は逆転するようになるのですが、それを「神本仏迹説(しんぽんぶつじゃくせつ)」の神道といいます。話を整理すると、本地垂迹説においては、本来は仏であったものが日本人の前では神に形を変えて現れ、仏教が伝来する前から信仰されていたのであると解釈することによって、仏教と神道は根本は同じであると主張したのですが、「神本仏迹説」においては日本の神は仏よりも優れた存在であり、むしろ神が仏の本地(オリジナル)であると主張したのです。こうした神道の代表が伊勢神道と吉田神道です。

 伊勢神道は、伊勢神宮の外宮の神官・度会行忠(わたらい・ゆきただ)によって基礎が築かれ、度会家行(わたらい・いえゆき)によって大成されました。平安末期から鎌倉・南北朝時代にかけて形成された神道です。ここで初めて、「神は本地仏よりも優れた存在であり、神が仏の本地である」という思想が出現したのです。

 吉田神道は、唯一神道、卜部(うらべ)神道、宗源(そうげん)神道とも呼ばれ、室町時代後期に吉田兼倶(よしだ・かねとも)が創唱した思想であり、インドの仏よりも日本の神のほうが優位であると主張しました。彼によれば、神道が根本であり、儒教は枝葉、仏教は花実であるということになります。吉田神道における根本神は、「国常立尊(くちとこたちのみこと)」です。

<儒家神道>
 一方、江戸時代初期になると徳川幕府の奨励で儒教が流行し、儒教と神道が同一視され、神儒一致の神道が登場しました。朱子学を学んだ儒学者によって唱えられたこうした神道説を「儒家神道」と言います。

 林羅山の「理当心地神道」(りとうしんちしんとう)、吉川惟足(よしかわ・これたり)の「吉川神道」、度会延佳(わたらい・のぶよし)の「後期伊勢神道」、山崎闇斎(やまざきあんさい)の「垂加(すいか)神道」などが代表的な儒家神道です。儒家神道においては、「神道の本質は祭祀や行法ではなく、天下を治める道である。神道は王道であり、天照大御神から天皇が継承したものである。」と説きました。

<復古神道>
 復古神道とは、国学者が『古事記』『日本書紀』などの古典をよりどころに定め、儒教や仏教を交えずに神道を説明する思想を言います。

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 本居宣長(もとおり・のりなが)は、従来の神道説にみられた仏教や儒教の影響を「漢心(からごころ)」と批判し、神道の人為的な解釈を「さかしら(利口ぶること)」として避けました。そして、天照大御神が伝えた人のよるべき道が神道であると主張しました。平田篤胤(ひらた・あつたね)は、「祭政一致」を唱えて天皇の積極的な政治関与を主張し、幕末の尊王攘夷思想と王政復古に大きな影響を与えました。

 こうした国学者による「復古神道」の思想が、明治維新の思想的原動力の一つとなったので、明治政府が「神仏分離令」を出し、「国家神道」を確立したのは思想的必然であると考えることができます。

<神仏分離>
 明治維新の背景にあったのは、本居宣長や平田篤胤らの「復古神道」の影響を受けた尊王攘夷と王政復古の思想でした。これは基本的に神道から外国の影響を排除して原点に戻るという考え方でした。明治政府はこれを「神仏分離令」によって実行しようとします。日本古来の神々は、仏教伝来以降1200年にわたって、仏教信仰の中に取り込まれ、「神仏習合」の状態にありましたが、これを神の本来の形(神を単独で祀ること)に戻すことによって、神の子孫とされる天皇の権威を復活させようとしたのです。

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 神仏分離令の具体的な内容は以下の通りでした。
A) 神号に仏語の使用を禁止
 神号に大菩薩、権現、牛頭天王などの仏教用語を使用することを禁止しました。例えば、「八幡台菩薩」は「八幡神」に改められました。
B) 神宮寺の廃止
 神社に付属した神宮寺などの仏教的な建造物の廃絶が行われました。
C) 別当・社僧の還俗
 全国神社内の別当・社僧に還俗を命じ、神職と僧侶の区別をはっきりさせました。「神宮寺」においては、社僧と呼ばれる仏教の僧侶が、神前読経など神社の祭祀を仏式で行っていましたが、そのトップを「別当」と呼んでいました。こうした別当や社僧は、神宮寺の廃止に伴ってその地位を失い、出家した仏教の僧侶が神社の祭祀に関わらないようにしました。
D) 神社内の仏像・仏具の除去
 神社の中にある仏像・仏画や仏具は取り除くべしという指令が出されました。これは必ずしも仏像や仏具を破壊せよという命令ではなかったのですが、江戸時代の「寺請制度」と呼ばれる幕府の間接統治のシステムの一翼を担った仏教界の腐敗に対する民衆の反発を背景として「廃仏毀釈」運動が起こり、各地で寺院や仏像、経典を破壊する運動が起こりました。この騒ぎは数年で収まったのですが、結果的に多くの貴重な文化財が失われました。

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