書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』158


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第158回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第八章 韓国社会と統一教会」の続き

 中西氏は、第8章の「三 韓国農村の結婚難と統一教会」と題する節のなかに「8 布教戦略としての韓日祝福」という項をもうけ、韓日祝福が統一教会の布教戦略においてどのように位置づけられているのかを簡単に分析し、それを次に続く章への前置きとして整理している。ここで述べられている内容は、第8章のまとめにあたる。したがって、特に新しいことを述べているわけではないが、彼女の論理展開を再確認するために引用し、批判内容も整理しておくことにする。
「第八章以降での問題点は、統一教会の信仰は特異な宗教実践によって獲得されるものであるにもかかわらず、信者が信仰を持ち続けていられるのはなぜかである。第八章は九章、一〇章の前置きにあたる。」(p.446)

 中西氏が担当している本書の第9章は韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビューと参与観察に基づいて記述されており、第10章は統一教会発行の祝福家庭向け新聞『本郷人』(韓国在住の日本人祝福家庭夫人に向けて発行されているもの)の内容に基づいて書かれている。こうした内容をいきなり記述しても読者によく分からないので、事前の解説という意味で、韓国における統一教会と社会の関係、日本との違い、韓日祝福が成立する社会的背景などを説明したのが第8章という位置づけなのであろう。常識的には、7000人もの日本人女性が信仰を動機として韓国人と結婚するというのは驚くべきことなので、それが成立する背景から説明しようというのは理解できる。しかし、中西氏の研究において韓国在住の日本人女性信者に関する情報は直接見聞きした生の情報であるのに対して、日本の統一教会に関する知識は間接的な歪んだ情報に基づいているという欠陥があることは既に指摘してきたとおりである。

 「統一教会の信仰は特異な宗教実践によって獲得されるものである」という表現自体が、「普通な韓国統一教会」と「異常な日本統一教会」というステレオタイプ的な枠組みに基づいている。中西氏の頭の中にある日本統一教会のイメージは、櫻井氏から提供された大量の文献と、櫻井氏自身の記述によって作り出されたものであろう。しかし、それに偏りや歪みがあることはこれまで繰り返し指摘してきた通りである。

 中西氏は統一教会の信仰が「特異な宗教実践によって獲得された」であると断じた上で、問題は「信者が信仰を保ち続けていられるのはなぜかである」(p.446)と言っている。この書き方には、「普通の人であれば統一教会を脱会して当然であるにもかかわらず、現役信者として信じている奇特な人々がいる。どうして信じ続けることができるのか、その理由を解明しなければならない。」というニュアンスが込められている。普通の宗教団体に対しては、このような書き方はしないであろう。「現役信者として信仰を保ち続けている者たちがいる一方で、脱会する信者がいるのはなぜかが問題となる。」と書くのが普通である。現存する宗教団体に現役信者がいるのは「当たり前」である。その中で、信仰を続けられなくなる人が出てくるのであって、その事情を分析することを通して、人が信仰を棄てる理由について考察するのが通常のアプローチであろう。しかしここでは、辞めるのが当たり前であるのに、統一教会のような宗教をどうして信じることができるのか、というバイアスがかかった表現になってしまっているのである。

 中西氏は、韓国における統一教会のあり方と日本におけるあり方の違いを強調する。韓国においては統一教会は宗教であると同時に事業体であり、異端や似而非宗教とされながらもある程度受け入れられ、一定の勢力を持った名の知れた宗教団体となっているというのである。しかし、この分析が事実に反することはこのシリーズの148回から150回にかけてすでに説明したとおりである。中西氏の日韓の比較分析の不備の多くは、彼女が日本の統一教会に直接触れたことがなく、無知である上に、歪んだ情報に基づいて比較していることに起因している。

 こうした歪められた日韓の比較の上で、中西氏は渡韓した日本人の信仰生活を以下のように分析する。
「この点では、韓国は日本人信者にとって暮らしやすい、日本であれば、信仰を持っていることを周囲に明かせず、隠れキリシタンのごとく信仰を続けなければならない。もしわかったら白い目で見られるかもしれない。これはストレスになる。韓国であれば、日本にいたときのように隠す必要はない・・・。渡韓してしまえば、親の反対からも逃れられる。韓国ではストレスを感じないで暮らせる。」(p.446)

 これは渡韓した日本人女性信者へのインタビューに基づいた知見であると思われ、ある程度の実感に基づいた日韓の比較であるとは言えるのかもしれない。しかし、これはあくまでも相対的な比較である上に、個人差が大きいため、過度に一般化することはできないであろう。そもそも日本における統一教会信者がすべて信仰を持っていることを周囲に明かせず、隠れキリシタンのごとくに信仰を続けているという描写自体が、非常に極端なものである。周囲に対して堂々と統一教会信者であることを公言し、なお周囲の社会と協調して生活している信者は多数いるのであり、統一教会の信仰を持つことによって完全に社会と断絶すると考えるのは誤りである。
「しかも韓国は教祖の国であり、統一教会が生まれた国である。そこで韓国人の配偶者と家庭を築いて暮らせるのであるから、信者としてはいい環境である。」(p.446-7)

 この部分には、統一教会信者の内面的価値に対する理解が見られ、この種の批判的研究においてこうしたことが述べられるのはある意味で驚くべきことであり、評価に値する。韓日祝福に対する批判的な文献の中には、韓国にお嫁に行った日本人女性は苦労ばかりで不幸な生活をしているという決めつけが多い。2010年に発売された「週刊ポスト」(6月4日号)に掲載された記事などはその典型であるが、実際に日本人女性信者インタビューした中西氏は、彼女たちがある意味で韓国は日本よりも暮らしやすいと感じていることを正直に報告しているのである。一方で信仰以外の言葉、文化、経済といった面での苦労があるので、日本と韓国でどちらが幸せかという単純な比較はできない。しかし、信仰の内面的な価値に基づけば韓国での生活は幸せなものであり、その価値観を強く内面化している人にとってはかけがえのないものであるという理解は重要である。
「実態としては、韓日祝福で嫁いだ日本人女性は農村花嫁にほかならない。それを彼女達に納得させているのは、祝福の意味づけである。」(p.447)
「韓国の農村に男性の結婚難がなければ、そして日韓の歴史的関係に植民地の支配-被支配の関係がなかったならば韓日祝福は成り立っておらず、七〇〇〇人もの日本人女性信者が結婚して渡韓することはなかった。結婚したいという韓国人男性と、教えを内面化することによって韓国に贖罪せねばと思う日本人女性とが夫婦となって韓日家庭を築いている。この点で韓日祝福は韓国社会の社会構造的な歪みの上に日韓の歴史的関係を結び合わせたところに展開された布教戦略であるといえる。」(p.447)

 この分析は、歴史に「もし」という発想を持ち込んでいる点でナンセンスである。歴史上のある出来事がなかったら現在の事態はなかっただろうというようなことは無限に言えるのであり、その分析自体に意味はない。過去の歴史機的な出来事の積み重ねとして現在があるのであり、そのただ一つでも欠けたら現在はないからである。これは私が第153回で「もし韓国統一教会に7000名の日本の女性信者とマッチングすることが可能なくらいに十分な数の男性信者がいたならば、これらの女性信者は配偶者に恵まれない韓国の農村の男性に嫁いだのではなく、信仰を動機として結婚する韓国の男性信者のところに嫁いでいたであろう」と反論したように、そのような布教戦略が実行されなかった歴史の「もし」を仮定しようと思えば、いくらでもできるからである。

 さて、韓国人と結婚した統一教会の女性信者の中に、韓国に対する贖罪意識があるというのはおそらく事実であろう。特に韓国人の夫や韓国での生活に不満や苦労があるときに、自分を納得させるためにそうした過去の歴史に思いをはせることはあるかもしれない。しかし、結婚そのものの動機や目的を単にネガティブに「贖罪のため」と思って結婚する日本人女性がどれだけいるのかは疑わしい。それよりも、祝福に対する理想や、韓国に嫁ぐことに対する宗教的な意義づけというポジティブな部分が大きいと思われる。その部分を理解しないと、韓日祝福の意義づけが悲壮なものに歪められてしまうことになる。中西氏の分析は、意図しているかどうかは不明だが、結果としてそのような悲壮な色付けを韓日祝福に対して施している点は批判されるべきである。

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