書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』149


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第149回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第八章 韓国社会と統一教会」の続き

 中西氏は、韓国において統一教会が日本ほど否定的に捉えられていない理由を「2 宗教団体としての統一教会」(p.408~)のあり方から分析している。ここでは彼女が直接出会って知り合いになった韓国の統一教会信者へのインタビューに基づき、韓国でどのような勧誘が行われ、どのような動機で人々が信者になるのかが三つの事例によって紹介されている。先回は①一般の女性信者を紹介したが、今回はその続きで、②一般の男性信者と③結婚目的で信者になった男性の事例を分析する。

 一般の男性信者(1971年生まれ、1997年入信)は、一人目の事例に比べると年齢的に若く、信仰歴も浅い。彼は統一教会の牧師の妻(日本人)から伝道され、2002年に日本人女性と祝福を受けているというから、日本人と縁の深い韓国人信者と言える。彼が「霊の親」である日本人女性と出会ったのは、1995年に日本語学校で日本語を教えたり、通訳、翻訳の仕事をしていたときだった。当時大学で日本人女性教員をしていた「霊の親」にサークルでの日本語指導をお願いに行ったのがきっかけで、やがて個人的な話をするようになり、自宅での訓読会や教会に通うようになった。家庭環境が複雑だった彼は、幸せな家庭に対する憧れから祝福を受けることを決意したようである。2002年に祝福を受け、2003年に長女、2005年に次女が生まれ、現在は妻の親族と三世代四家族がそれぞれ同じマンションで暮らしているというから、家庭生活は順調で幸福であると言ってよいであろう。

 この男性信者の入信経緯に関して、中西氏は以下のようにまとめている。
「韓国の大学で教員をしている日本人信者と知り合ったことが統一教会に関わるきっかけになったという点ではやや特殊な事例かもしれないが、入信の経緯から祝福までのプロセスが日本の青年信者と違うことは明らかであり、教化プログラムや献身生活は経験していない。熱心な勧誘を受けたというより教員との個人的な交流や、自分自身の家庭環境から家庭の重要性を説く統一教会に関心を持つようになったものと思われる。」(p.412)

 次に中西氏は、「結婚目的で信者になった男性(1963年生まれ)」を紹介する。

 この男性は、36万双(1995年)で祝福を受けた日本人女性の夫であり、彼女の紹介で中西氏は夫にインタビューを行っている。自分の夫に対するインタビューを許可し、包み隠さず話させたわけであるから、このときにはまだ中西氏と在韓日本人祝福家庭婦人の関係は良好だったということだ。

 この男性は、母親からの勧めで「祝福申込書」を出したという。その母親が統一教会に関わるようになったのも、息子を結婚させることが目的で、その背景には6500双や三万双で祝福を受けて渡韓した日本人女性たちの評判が良かったことがあり、「うちの息子にも」と考えて勧めたということだ。このように、韓国の農村部において、独身男性やその親に統一教会が「結婚相談所」として受け取られており、信仰というよりは結婚を目的として祝福を受けた韓国人男性がいること自体は事実である。そのことの是非については中西氏はここでは触れていないので、私も触れないことにする。

 この事例を元に、中西氏は「農村部における統一教会のあり方は、全く日本とは異なることが確認できる」と分析し、その根拠として「信者になったからといって日本でのような体系化されたプログラムで原理を学ぶこともなければ、献身することもない。献金や布教が強要されるわけでもない。祝福献金は必要だが、A郡では日本の一〇分の一と聞いている。修練会はあっても日本で行われているような管理された内容ではなさそうである。・・・・入信しても日本のように特異な信仰にはなっていない」(p.414)という理由を挙げている。

 さて、これら三つの事例から中西氏は、韓国における統一教会の布教のあり方は日本とは全く異なると結論する。
「韓国での統一教会は正体を隠して組織的伝道をしているわけでもなく、入信したからといって信者はビデオセンターから始まる教化プログラムを受けて献身することもなければ、献金に追われることもない。要するに入信後の信仰のあり方が日本のように特異な宗教実践とはなっていない。イエスを否定し、文鮮明を再臨主とするようなキリスト教と相容れない教義を持っていても、それは宗教団体として社会的に逸脱しているとはいえない。」(p.414)というのが彼女の主張である。

 さて、先回の一人目の女性信者の時に既に私が指摘した内容ではあるが、この中西氏の分析の問題点は、韓国の統一教会信者に対しては直接インタビューを行い、入信の動機や伝道されるプロセスについて共感的な理解をしているにもかかわらず、日本人の青年信者については文献から得られたセコンドハンドの情報に頼って比較を行っているということだ。その比較の目的は、韓国では統一教会が「普通の宗教」として存在し、勧誘のプロセスが異常なものではないのに対して、日本では特殊な教化プログラムや献身生活が存在するために、異常で反社会的な団体であると認識されている、という鮮やかなコントラストを読者に印象付けることにある。しかし、その手法がいささか牽強付会に近く、広範なデータに基づいた客観的な調査とはお世辞にも言えないレベルになっている。

 日本と韓国の伝道の方法や信者の入信の動機を比較したいのであれば、本来ならば日韓の両方にどのようなパターンがあるのかをもっと幅広く調査しなければならないはずである。例えば、日本において個人的な交流から自然に伝道されたケースや、教化プログラムや献身生活を経験しないで入信した例がないのかどうかを調べる必要があり、さらに韓国にも日本に類似するようなシステマティックな伝道方法が存在しないのかどうかも調査しなければならない。しかし中西氏がそうした調査をした形跡はない。

 中西氏の記述で興味深いのは、「信者及び一般を対象にした一泊二日の修練会に筆者も参加したことがある。第九章でふれるが、パワーポイントを用いての原理講義を聞くだけだった」(p.414)という部分である。韓国での修練会に参加したのであれば、日韓の比較を行うために、中西氏は日本における修練会に参加すべきだったのではないだろうか。それこそが実体験に基づく生きた比較になると思うのだが、彼女はそれをしていない。韓国での修練会の内容は、「パワーポイントを用いて原理講義を聞くだけ」ということだが、黒板講義なのかパワーポイントなのかは時代によるプレゼン方法の違いに過ぎず、「修練会とは原理講義を聞くものである」という本質は、韓国でも、日本でも、西洋でも同じであり、時代が変わっても中身が大きく変わるわけではない。アイリーン・バーカー博士は『ムーニーの成り立ち』のなかで修練会の講義について、「講義は、高等教育の多くの場所で毎日(同じかそれ以上の時間)なされているものよりもトランスを誘発するものではない。」と分析している。中西氏が自分の体験した修練会と比較しているのは、櫻井氏の記述によって歪曲された日本の修練会の「イメージ」である。これは実体験を伴わない「虚像」と比較しているに過ぎない。

 さらに、アイリーン・バーカー博士がヨーロッパとアメリカの統一教会信者について調査した『ムーニーの成り立ち』を読めば、西洋にも日本と同じような修練会や教化のプログラムが存在し、それ故に「洗脳」や「マインド・コントロール」の疑いをかけれらたことが分かる。単に日本と韓国の事例を比較するだけではなく、日本と西洋にあるものがどうして韓国に無いのかを掘り下げて分析する必要があるのではないだろうか? 

 中西氏の分析は、たった三つの事例をもって韓国における伝道方法を代表させ、それを文献や伝聞で得られた知識をもとにした日本の伝道方法と単純に比較するという、極めて大雑把で乱暴なものである。さらに、システマティックな伝道方法が存在するかどうかという問題は、国ごとの個性の問題であり、その国の国民性や文化と深く関わっている。一つの国でうまくいく方法が他の国で同じようにうまくいくという保証はない。それ故に、各国の伝道方法に簡単に優劣や善悪などの価値判断はできないのである。にもかかわらず、中西氏は「普通な韓国統一教会」と「異常な日本統一教会」というシンプルな枠組みを最初から作り、それが日本において統一教会が世間から否定的に捉えられている根拠にしようとしている。これは言ってみれば「結論ありきの事例紹介」であり、客観的な日韓の比較とは言い難いものである。

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