書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』69


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第69回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、ビデオセンターの次の段階としての「4 ツーデーズセミナー」(p.229-33)について説明している。前回は班長による研修生の管理、無駄話の禁止、外部情報からの遮断といった内容について扱ったが、今回は食事、講師の紹介、睡眠の問題を取り上げることにする。

 ツーデーズセミナーにおける食事に関して櫻井氏はごく簡単に、「食事は大人としては粗食の部類だが、食生活の不規則な若者にとってはまずまずだろう」(p.231)としている。イギリスにおける修練会を参与観察したアイリーン・バーカー博士は、「統一教会の修練会での食事は必ずしも一流の料理人が作ったものではないが、ほとんどの大学の学生寮のものに比べて決して悪くはないし、おそらく多くの大学生が自分で用意するものよりは、はるかに栄養があるだろう」(『ムーニーの成り立ち』第5章 選択か洗脳か?より抜粋)と述べている。これらのことから、研修会における食事そのものに何か特別な作用があるわけではないことは明らかであろう。むしろ、受講生が食事に関して感動するのは別の観点であることが多いようだ。バーカー博士の「ムーニーの成り立ち」には次のようなインタビューの言葉がある。
「私がそこに着いたのは、金曜日の夜遅くでした。すでに大人数の夕食が終わって後片付けをしていましたが、台所の女性たちは手を止めて、私のために食事を作ってくれました。それはそうしなければならないという義務からではなく、そうしたいからしてくれたとても素敵な親切でした。それはうまく説明できませんが、私には分かりました。それだけではありませんでした。私は心の中で、それこそ自分が望んでいたものであり、これこそ自分がしたいことだと感じました。」(『ムーニーの成り立ち』第5章 選択か洗脳か?より抜粋)

 要するに、食事の豪華さよりも、それを作ってくれた人々の真心や奉仕の精神に感動したということである。こうしたことは感受性の鈍い受講生には分からないかもしれない。しかし奉仕の精神を持ち、人のために行きたいと願っている受講生は、研修会のスタッフが献身的に働いている姿を見て感動し、自分もそのような人になりたいと思うのである。実際には、統一原理の教えそのものよりも、そうした人間の姿に感動して入教を決意したという人は多い。

 続いて、講義の様子に関して櫻井氏はあたかも見てきたかのように描写する。
「早起きで覚めやらぬ頭に『創造原理』が講師の熱烈な講義でたたき込まれる。受講生はビデオセンターや班長から『大変な講師』『受講できるあなたはラッキー』といったことを繰り返し聞かされているので、何か重要なことを語っているのではないかという気になる。しかし、社会人にとってはせいぜい先輩くらい、学生にとっても助手くらいの人が、確信に満ちて大声で情緒たっぷりに堂々と講義をする様にとりあえず目を見張る。」(p.231)

 まずツーデーズの講師の紹介の仕方であるが、実際にはその人の出身地や出身大学などが事実に即して具体的に説明されることが多かったようである。ビデオセンターのスタッフや班長が講師を褒めたのは事実かも知れないが、それは尊敬心の自然な発露であろう。青年向けのツーデーズの講師は、青年の組織に属する信者が担当していたので、受講生とそれほど年齢が離れているわけではない。少し年上の先輩という櫻井氏の指摘は基本的に正しい。これは「ピア・エデュケーション」に近いもので、同世代の若者の話だから親近感をもって聞くことができるということだろう。20代の若者が60を過ぎた老人から人生について聞かされても親近感を感じることは難しいが、少し年上なら素直に聞けるということはあるかも知れない。

 櫻井氏はあたかも見てきたかのように、ツーデーズの講義を「熱烈」「確信に満ちて大声で情緒たっぷりに堂々と」などと描写するが、修練会における講義を現実以上に情緒的なものとして描写するのは裁判資料の大きな特徴の一つである。櫻井氏はそれを鵜呑みにしているに過ぎない。講義のスタイルが理性的か情熱的かというのはひとえに講師の個性によるものであり、一概に言えない。また理性的な講義が良くて情緒豊かな講義が悪いということにもならない

 ツーデーズの教化としてのあり方はどちらかといえば講義を中心とした理性的なアプローチであり、感情的側面がそれほど強調されているわけではない。自己啓発セミナーや米国の根本主義者に見られるような、ローリングプレイや集団行動、あるいは音楽や映像を多用した手法を用いればはるかに大きな感情的効果が狙えるにも関わらず、ツーデーズのあり方は学校で教師の授業を受けるのとよく似たような、非常に古典的なスタイルである。これはツーデーズ研修の目的が感情的高ぶりよりも合理的な理解を主たる目的としているからにほかならない。信仰は一時的な感情の昂揚とは全く別のものであり、人の心の奥底に深く沈殿していくものである。したがって、仮に小手先のテクニックで一時的に感情を左右することが出来たとしても、それは信仰とは何の関係もないのである。このためツーデーズでは、いたずらに人の感情に訴えるような手段は用いられない。

 このことは、バーカー博士の「ムーニーの成り立ち」でも次のように説明されている。「講義は、高等教育の多くの場所で毎日(同じかそれ以上の時間)なされているものよりもトランスを誘発するものではない。さらに、私が観察したことは、入会する者たちは講義の内容が面白くて刺激的であると感じたらしく、また積極的に聞き耳を立て、ノートをしばしば取っており、そして(講義の後で質問をすることから明らかなように)自分自身の過去の体験と関連づけているのである。統一教会の修練会では、お経や呪文のようなものが唱えられることはほとんどない。仮にそれが行われるところでも(欧米では、主にカリフォルニアであったが)、ゲストに関する限りは非常に限定された性格のものである。確かに、それはクリシュナ意識国際協会の寺院を訪問したときに参加するように勧められるお経や、実際に、より伝統あるヒンドゥー教の寺院で通常行われているものほど激しくはない)。統一教会は恍惚状態を志向する宗教ではないし、通常の活動の一部として、信者たちを熱狂に駆り立てることはしない。」(『ムーニーの成り立ち』第5章 選択か洗脳か?より抜粋)

 櫻井氏は受講生の描写の中で、「熟睡できるものは少ないと思われる」「緊張感と同時に頭脳の疲労度も増し、居眠りも許されないという状況の中で頭は朦朧としてくる。人によっては半覚醒の状態で講義を受ける。」「午前中よりさらに眠くなる」(以上、p.231)「ほとんどの受講生はセミナーの受講疲れのためにそこまで考える余裕はない」(p.232)などど、やたらと受講生の眠気や疲れを強調し、正常な状態ではないかのように描いている。しかし、スケジュール表によれば睡眠時間は7時間あるのであり、若者が眠気を催すような過酷な状況にはない。「ムーニーの成り立ち」においても、睡眠不足が判断を鈍らせることはないことを以下のように論じている。
「修練会のゲストたちは、7時間ほどの睡眠が許される。彼らは必ずしも常にこれを利用するわけではないが、学生たちが試験の準備をするときにはもっと少ない睡眠しかとらないこともまれではないし、結果としてその試験で十分よい成績を挙げている。」(『ムーニーの成り立ち』第5章 選択か洗脳か?より抜粋)

 「眠気」や「意識が朦朧」などという言葉を裁判資料が強調するのは、自分たちが通常ならざる状態で入教を決断させられたと原告たちが訴えることによって、勧誘行為の違法性を追求して損害賠償を勝ち取りたいからである。しかし、バーカー博士の客観的な研究は、こうした「生物学的な感受性」が説得を受け入れた原因であるという証拠は見いだせなかったという結論を出している。眠気や疲れだけで人が回心するわけではないということだ。

 櫻井氏の描くツーデーズの受講生像は、慣れない環境や眠気と疲労に苛まされた若者が、「講義内容が理論的にわかることはない」まま、「この先さらにライフトレーニングに進むかどうかの決断のみを迫られ」(p.232)、霊の親と支部の歓迎パーティによって「ノリノリの雰囲気」(p.233)の中で決意を表明してしまうというものである。しかし、これは脱会者が後から訴訟のために描いたストーリーであり、平均的なツーデーズ受講生の体験であるという客観的な証拠は存在しない。講義内容を理解してしまったことにすると、入信は自体責任ということになってしまうので、あえて異常な状態であるかのように事実を変形し、研修会の外的要因に回心の原因を責任転嫁しようとした描写であると言えるだろう。

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