書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』148


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第148回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第八章 韓国社会と統一教会」の続き

 中西氏は、韓国において統一教会が日本ほど否定的に捉えられていない理由をまずは「2 宗教団体としての統一教会」(p.408~)のあり方から分析する。これは韓国でどのような勧誘が行われ、どのような動機で人々が信者になるのかを、彼女が直接出会って知り合いになった韓国の統一教会信者から聞き出して整理したものだ。①一般の女性信者、②一般の男性信者、③結婚目的で信者になった男性を、それぞれ一例ずつ挙げているわけだが、仮にも日本との比較において韓国統一教会のあり方を論じるには、情報収集の母集団が小さすぎるという感は否めない。三つのインタビューは個人のライフストーリーの紹介としては成り立つかもしれないが、この三例だけで韓国統一教会の伝道方法のあり方全般を論じるのは拙速な判断と言えないだろうか。学問的には、ここでは自分が偶然出会った韓国の統一教会信者に関する知見であるという、抑制的な表現をすべきであったのだろうが、日本と韓国の比較を通して日本統一教会のあり方を批判するという櫻井氏が設定したイデオロギー的枠組みに合わせて表現しなければならなかったため、飛躍があることを承知で断定的な書き方をしている可能性がある。それを前提として、個々の事例を見てみよう。

 一般の女性信者(1934年生まれ、1975年入信)は、1974年に復興会を通して統一教会に出会っている。原理を聞いたときには既に40歳であり、既婚で二男三女がいたということであるから、青年として信者になったのではなく、「壮婦」の立場で入教したことになる。「反対があっても教会を離れなかったのは霊的な体験があったからである」(p.409)という記述からもわかるように、宗教的素養のある人のようだ。反対を受けつつも夫を修練会に送って納得させ、子供もみな祝福に導いた模範的な婦人食口という感じの経歴である。

 この女性信者の入信動機に関して中西氏は、「女性が新宗教の説く倫理規範に夫婦や家族のあり方、生活指針を求めることは、日本の新宗教研究においてこれまで指摘されてきたことである(井桁 1992)。この女性にとって統一教会の信仰は、日本において戦後から高度経済成長期にかけて主婦が新たな家族規範を新宗教に求めたのと同じようなものだったのではないだろうか。韓国では日本の壮婦のように布教や経済活動に追われることもない。統一教会の信仰を持っても肉体的・経済的な負担を感じることはなく、多少の反対はあっても無理のない信仰生活を続けられる。」(p.410)とまとめている。

 中西氏の分析には大きく分けて二つの問題点がある。まず中西氏は「復興会は韓国キリスト教会では伝道集会をいうが、統一教会も復興会を通して伝道を展開していたことが窺われる。この女性の語りによれば、最初から統一教会とわかって復興会に参加し、原理の内容に共感を覚えて入信している。」(p.410)と記述することを通して、霊感商法や正体を隠しての組織的勧誘を行っている日本の統一教会との違いを表現しているのだが、これは時代状況を全く無視した比較になってしまっている。

 この韓国人女性が入信した1975年当時は、日本には「霊感商法」も「正体を隠した伝道」も存在しなかった。それでは日本で当時どのように伝道がなされていたかと言えば、韓国とまったく同じように「復興会」を通して伝道していたのである。すなわち、この時代には韓国と日本の統一教会は同じ方法で伝道を行っていたのであり、勧誘方法や入信の動機に関して日本と韓国の違いを説明したことにはならないのである。

 1970年代の日本統一教会のあり方に関しては、櫻井氏自身が「はじめに」の「1 顕示的布教から正体を隠した勧誘へ」という項目の下で以下のように論じている。
「一九六〇、七〇年代に統一教会の学生組織である原理研究会は大学構内で堂々と示威的な布教活動を行っていた。・・・彼らが左翼系学生と論戦を交わしたり、路傍で黒板を立てて講義したりする姿は、確かに異様ではあったが自信に満ち、活動を誇示しているようでもあった。」しかし、「一九八〇年代から統一教会は宣教戦略を大きく転換し、世界宣教の活動資金を調達するために、いわゆる『霊感商法』と批判される物品販売を大々的に行った」「また、この時期から統一教会はビデオ教材を用いた教養講座を装うビデオセンターを各地に設置し、統一教会を隠して一般市民を勧誘するようになった。」「要するに、統一教会は自覚的な参画者からなる宗教運動から一般市民の動員と資金調達を戦略的に行う組織宗教となった。」(p.ii-iii)

 私は櫻井氏のこの主張に同意するわけではないが、これが櫻井氏と中西氏が共有する日本統一教会の時系列的変化であるとすれば、少なくとも1975年当時の伝道方法に、日韓の違いはないことになる。このように時代的にずれている事例を比較して「日韓の勧誘方法の違い」を主張する中西氏の論法は乱暴としか言いようがない。

 しかしより本質的な問題は、入信の動機や信仰生活の実際に関する比較が、本人と向き合ったインタビュー(韓国)と文献や伝聞によって形成されたイメージ(日本)という組合せになってしまっているため、分析に深みがないことである。本当に日本と韓国における勧誘方法と入信動機の違いを比較研究したいのであれば、①伝道された時代と年齢、②性別、③未婚と既婚の区別、④大都市圏と田舎の区別、⑤教育レベルや社会的階層などの基本的ファクターの似ている者同士を日韓から複数選んで、両方に直接インタビューしてデータを取るのが正統的なやり方ではないだろうか? しかし、彼女が直接出会ったのはあくまで韓国で暮らす日本人の統一教会信者と韓国人の統一教会信者であるため、日本国内の現役の統一教会信者に関しては直接取ったデータがない。そこで、その部分に関しては出来合いのイメージに頼らざるを得ないのである。

 おそらく中西氏の頭の中にある日本統一教会信者のイメージは、櫻井氏から提供された大量の文献と、櫻井氏自身の記述によって作り出されたものであろう。しかし、それに問題があることはこれまで繰り返し指摘してきた。改めて問題点を整理すれば、①櫻井氏の情報源が統一教会を相手取って民事訴訟を起こした元信者及びその関係者であり、裁判資料という偏った情報源に依存していること、②入信を後悔している元信者の証言という点で強いネガティブ・バイアスがかかっている可能性が高いこと、➂参与観察を行わずにインタビューとテキストに頼っているために情報に直接性がないこと、➃統一教会信者の宗教経験を包括的かつ公平に扱っておらず、裁判資料の信頼性を補強するために情報を恣意的・選択的に集めていること、⑤事実の追求を主張しながら、利害の対立する一方当事者の「真実」に肩入れし、他方当事者の「真実」を捨象していること――などである。

 櫻井氏はあたかも自分が見聞きしたかのような筆致で「統一教会のセミナーやトレーニング」と称するものについて描写しているが、実際には彼は参与観察を行っていないので、それはすべて裁判資料で述べられていることを再構成しているに過ぎない。彼自身が見聞きしたファーストハンドな情報ではなく、あくまで元信者の目を通して観察されたセミナーやトレーニングの描写をトレースしているだけである。

 櫻井氏の描く統一教会信者の入信過程や信仰生活の実態は、「青春を返せ」裁判で原告たちが主張していることの繰り返しに過ぎない。彼らは自らの宗教的回心に主体的な動機があったことを認めてしまうと、教会に対して損害賠償を請求できなくなってしまうので、教会の巧みな誘導によって説得され、納得させられた「受動的な被害者」として自らを描写する必要があった。こうした目的に基いて書かれた歪んだ描写を基礎資料としているため、櫻井氏の描く統一教会への回心は悲壮な雰囲気に満ちている。中西氏はこのようにして出来上がった日本の統一教会信者のイメージと、自分が実際に出会った韓国の統一教会信者を比較しているに過ぎないのである。

 これは要するに、自分が直接出会った「リアル」な韓国統一教会信者と、歪められた伝聞によって構成された「イメージ」の比較に過ぎず、実感のあるものとないものの比較になってしまっているので、深まりようがないのである。もし中西氏が日本の現役統一教会信者の中から、数名の壮年婦人を選んでインタビューし、彼女たちの入信の動機や信仰生活の実態について共感的に聞く機会があったとしたならば、「女性が新宗教の説く倫理規範に夫婦や家族のあり方、生活指針を求めることは、日本の新宗教研究においてこれまで指摘されてきた」ことを再確認し、「日本において戦後から高度経済成長期にかけて主婦が新たな家族規範を新宗教に求めたのと同じようなもの」(p.410)を、日本の統一教会信者たちの中にも見いだしたのではないかと思われる。しかし、日本の統一教会信者について何かを共感的に捉えることは、この研究では最初から「禁じられている」ようなものなので、彼女は作り上げらた日本統一教会信者の「虚像」と紋切り型の比較をするほかなかったのである。

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