書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』93


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第93回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 先回まで、第六章「四‐二 清平の修練会」の細かい内容に関して櫻井氏の記述に対する反論を行ってきた。彼の誤解や意図的な歪曲を批判する作業はこのくらいにして、しばらく櫻井氏のテキストを離れ、清平の修練会そのものに対する考察を行ってみたい。櫻井氏は清平の修練会を「四 統一教会における霊界の実体化」という節の中に位置付け、四‐一でいわゆる霊感商法について扱ったうえで、四‐二で清平の修練会を扱っている。すなわち、彼にとってこれら二つは連続性を持った現象として捉えられており、清平の役事は霊感商法の延長線上にあるか、その変形であると考えられているのである。

 私はかつて、「霊感商法とは何だったのか?」という自身のブログのシリーズにおいて、「霊感商法」と「天地正教」と「清平役事」を一つの連続した現象として位置付けたことがった。その連続性を担保する概念は、統一教会の日本への土着化である。統一教会の教義は基本的には聖書に基づくキリスト教的なものであり、そのままでは日本社会に土着化するのは難しい。したがって、先祖の救いや霊障からの解放といった土着の宗教的欲求に答える要素がなければ、日本の土壌において教会を発展させていくことは難しいのである。

 統一原理を日本に土着化させる第一の試みとして信徒たちが行ったのが「霊感商法」であり、私はこの現象を、統一原理の教えと日本の土着の宗教文化が融合することによって起こったシンクレティズムであると分析した。天地正教は、霊感商法が日本において社会的批判を浴びた後に、「霊石愛好会」を経て創設された、弥勒信仰に基づく仏教教団であった。これは本質的には統一原理の仏教的解釈と展開による土着化の試みであり、一定の成功を収める可能性を秘めていたが、結果的には1999年に消滅してしまった。しかしながら、先祖供養や霊障からの救いに代表されるような、土着の宗教的欲求に応えるための別の装置がそれに代わって準備されたわけではなかった。

 現在、「霊感商法」や「天地正教」を通して満たそうとした日本土着の宗教的欲求を満たしているのは、清平の役事である。清平の役事は、「霊感商法」や「天地正教」のように日本土着の宗教伝統と統一原理の習合の結果として生じたものではないし、これらとの間には直接的な因果関係はないが、それらが満たそうとしている宗教的欲求は非常に近いものである。清平の役事は、霊障からの解放、先祖の救いと解放、病気の癒しという特徴を持ち、これらは日本土着の宗教的欲求に応える内容を持っているのである。

 そこでこれからしばらくの間、以前の「霊感商法とは何だったのか?」という自身のブログのシリーズでは詳しく述べることのなかった、「霊感商法」および「天地正教」と「清平役事」の関係について論じることにする。櫻井氏の著作の逐語的な批判をしばらく離れることになるが、彼が清平の修練会を霊感商法の延長線上としてとらえ、批判的に記述していることを踏まえ、私自身の考えをまとめてみたい。

 清平の役事に関しては既に櫻井氏が基本的な事実を解説しているし、統一教会の信徒には広く知られていることであるので、ここではその詳細を繰り返して述べることはせず、霊感商法および天地正教との比較の中で、それらとの相違点と共通点を述べることにする。

 金孝南氏の肉身に再臨した大母様による霊分立の役事が清平修錬院で本格的に始められたのは、1995年1月19日であったとされる。 これは天地正教が消滅する以前のことであり、しかも、ちょうどその頃から二代目教主・新谷静江が「弥勒仏は文鮮明師ご夫妻である」と宣言して、天地正教につながった信者たちにメシヤを受け入れさせる方針を強く打ち出していることから、天地正教の代わりに清平役事が始まったという考えは時系列的に成り立たない。すなわち、天地正教の消滅と清平役事の出発の間には、直接的な因果関係はないのである。

 にもかかわらず、天地正教の消滅によって満たされなくなった先祖供養や霊障からの救いに代表されるような日本土着の宗教的欲求は、次第に清平役事において満たされるようになり、日本から多くの統一教会信者たちが清平を訪れるようになる。このように、霊感商法および天地正教と清平役事との間に、ある種の共通点や連続性を見出すことは可能であるが、それを過度に強調することもまた誤りである、と私は考えている。それらの間には相違点や非連続性も明確に存在するのであって、そのことを見落としてはならないからである。そこで以後の考察においては、初めに両者の相違点や非連続性について述べ、続いて共通点を詳述することにする。

(1)誕生の経緯と公認の有無
 前述したように、「霊感商法」と「天地正教」の間には直系の親子のごとき因果関係があったが、それらと清平役事の間には、直接的な因果関係は存在しない。そもそも、誕生の経緯からしてこれらは異なっており、両者の間には明確な非連続性・相違性がある。

 まず、「霊感商法」と「天地正教」が、開運商品の販売や統一原理の日本への土着化といった、日本固有の、しかも人間の側の事情から出発したものであるのに対して、清平役事は天の摂理によって出発したものであり、日本人のみならず全世界の人々に対して開かれているという点が、大きく異なっている。

 清平役事の背景には、興進様の聖和(1984年)と、大母様の聖和(1989年)という真の父母様の直接の血族に関わる摂理的な出来事がある。そして、現在清平で奇跡的な出来事が起こっているのは決して偶然ではなく、摂理的に意義付けられて必然的な出来事であるとされているのである。
「新約時代である二千年前にイエス・キリストが天使を動員して病んだ者を治した奇跡が、今成約時代には清平修錬院において、真の御父母様に代わる興進様と大母様の役事として起こっている。すなわち、清平で起こる奇跡的なできごとは、実体聖霊の役事の生々しい証なのである。

 真の御父母様は祝福を通して私たちの原罪を除いてくださり、清平役事を通して私たちの体の中にいる悪霊を分立して先祖を解怨し、私たちの連帯的な罪と血統的な罪を除いてくださる。ゆえに私たち食口は自犯罪さえ整理すればよい。」(『成約時代の清平役事と祝福家庭の道』成和出版社、2000年、p.31)

 この記述からは、清平役事が原罪、遺伝罪、連帯罪、自犯罪という統一原理の主要な罪の概念のどの部分を担当するかが分かるし、興進様と大母様が真の御父母様の代身という立場で役事していることも知ることができる。
「したがって、清平役事を通して体の中の霊が分立される過程を経ずに天上天国へ行くのは不可能なことなのである。それゆえ、真の御父母様によって祝福家庭となることが、天国に向かう第一の関門を通過することであるとすれば、清平を通した霊分立は、二次的な関門を通過することになるのである。真の御父母様は早く全人類を祝福家庭にして、清平修錬院に呼んで天国の民に変えたいと考えておられるのである。」(前掲書、p.36)

 この記述によれば、清平役事に参加することは統一教会の食口が天国に行くための必要条件であり、真の御父母様の願いであるということになる。清平役事には、霊の分立、解怨だけでなく、霊人の祝福も含まれている。すなわち、統一原理において説かれている復帰のプログラムの一環として清平役事は位置づけられており、摂理的に必然の出来事とされているのである。

 文鮮明師は1999年1月29日、漢南洞の公館において、「全世界の食口たちは必ず先祖解怨式をしなければなりません。先祖解怨式というのは、真の御父母様の時代においては、7代までの先祖を探して解怨式をしてこそ、家庭圏を越えることができるのです。したがって、皆さんが新しい成約時代に入籍するには、必ず1代から7代までの先祖から、120代の先祖まで解怨しなければなりません」 と述べている。

 このような公認を「霊感商法」や「天地正教」が真の御父母様もしくは統一教会から与えられたことは一度もなかった。「霊感商法」に対する統一教会の公式見解は「一切関係がない」であるし、「統一教会と天地正教は全く別法人であり、また、霊石愛好会は宗教法人ではない任意団体であり、いずれも統一教会とは何ら関係のない団体である」(1994年5月27日 福岡地裁判決における統一教会側の主張)という主張は、現在でも変わっていない。

 1999年の「和合宣言文」にしても、天地正教側が統一教会側に対して交流を求め、信徒の教育を依頼したのに対して、統一教会側が「来る者は拒まず」という形で受け入れたのであって、なにか摂理的な必然性があって起こった出来事とは位置づけられていない。すなわち、「公認」という観点からすれば、霊感商法および天地正教と清平役事との間には、天と地ほどの差があるのである。

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