ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳69


第7章 分析と発見(12)

 第一の発見は、この特定の宗教グループが性倫理、性的役割、および結婚をどのように扱っているかを象徴する特定の「パターン」を全体として明らかにすると思われる構造、意味、態度及び行動の文書化によって構成される。例えば、結婚が世界救済を成し遂げる手段となるようなやり方でどのように定義されているかをわれわれは示した。そのようなパターンに関する知識は、他の学者たちならびに統一運動のより教養あるメンバーたちにとって有益であることが分かるであろう。ジョン・ロフランドが指摘したように、「これらを文書に残すことは人道主義的に重要なのである。」(注66)

 第二に、統一運動の性と結婚に対するアプローチはメンバーの献身を維持し強化する機能を持っていることを証拠は強く示唆している。この研究の限界のゆえに、厳格な因果関係を断定することは不可能だが、それでもその主要な目標を地上天国の建設であるとする統一運動のようなグループは、実際に性的充足、(配偶者選択の根拠としての)恋愛、結婚、および核家族を重要視せず、これらすべては彼らの全体ミッションである世界の救済に対する個人主義的な脅威であるとみなす傾向にあるであろう、という説を唱えるのは可能である。マックス・ウェーバーは1922年の著作で以下のように書いたときにこの視点を提示した。「合理的で禁欲的な覚醒、自制、および生活の方法論的計画は、性行為に特有の非合理性によって深刻な脅威にさらされる。性行為は究極的に、そして特異的に合理的組織の影響を受けないのである。」(注67)そして、より最近では、ウィリアム・J・グードが、感情的愛着としての愛がより大きなグループや部族に対する個人の関わりをいかに破壊するかについて説明した。(注68)われわれの理論は、これら先行の著者たちによる「逸脱した」社会運動、とりわけ現世的な千年王国的志向性を持った運動に関する洞察に焦点を合わせた。そうしたグループが献身を維持するためには、それらは個々の参加者が共同体の目標と活動を第一に考えるように導かれるような構造を持っていなければならないと私は論じる。性的魅力、恋愛、および核家族の利益は不可避的にこれらのより広い組織的な関心と衝突するように思われ、放っておけばおそらく献身の減退をもたらし、グループからの離脱をもたらす可能性すらある。

 われわれの理論から得られる結論は、性と結婚に対する現代のアメリカのアプローチは、統一運動のようなグループにおける献身の形成とは機能的に相容れないということだ。多くの統一教会信者は、近い将来より平凡な結婚と家庭の生活環境に入っていけることに対する希望を表明した。もしこれが起こったら、結婚したメンバーはおそらく宗教的共同体およびその差し迫った世界の救済のための計画に対してあまり献身的でなくなるであろう。そのような変化は、統一運動がアメリカの文化に大きく順応したことを意味するであろう。現在さらに多くの統一教会信者たちがマッチングと祝福を受けているため、世界の救済者としての夫婦の役割に何らかの根本的変化が起これば、それは統一運動に大きな影響を与えるであろう。とりわけ、メンバーの最適な献身を確保する能力に関してはそうである。

 第三に、われわれは統一運動において献身を維持し強化するために性と結婚のパターンがいかに機能しているかを理解し解釈するための三つの理論的視点、すなわち組織理論、知識の社会学、および役割理論の価値を立証した。この多層アプローチが有益であることはこの研究で実証されたので、それは将来における同種の社会運動の研究において十分に適用可能であろう。

さらなる研究の提案

 まず最初に、統一運動以外の新宗教が性と結婚をどのように扱っているかに関するわれわれの知識を増やす必要が実際にあるだろう。ジェームズ・T・リチャードソン、メアリー・W・スチュアート、およびロバート・B・シモンズによる根本主義のキリスト教共同体における性的役割、求愛、結婚に関する非常に徹底した研究を別にすれば、(注69)これら現代の社会運動が婚前の性行為、性的役割分担、結婚、および核家族といった問題にどのように対処できているかについてわれわれが知っていることは非常に少ない。例えば、J・スティルソン・ジュダ―のクリシュナ意識国際協会に関する本では、グループ全般に関するその優れた記述にもかかわらず、性に関する価値観、性的役割分担、および結婚についてはごく簡単にしか触れていないのである。(注70)その思想と文化のルーツをインドに持っているクリシュナ意識国際協会における慣習を、極東の産物である統一運動のそれと比較するのは大変興味深いであろう。

 第二に、統一運動に関するこの研究は、現代アメリカ社会、とりわけ若い成人における性および結婚に関する価値観と宗教の関係に関する興味深い問題を提起した。私が統一教会の信者と話して発見したことは、彼らの多くがグループに魅力を感じ、そこに残り続けているのは、一部にはそれが性、結婚、および家庭を尊重しているからであった。これらの判断の背後にある主要な価値観は、他者に対する非利己的な感心という意味での愛である。私の回答者のほとんどは極めて宗教的な家庭の出身であったことから、意味のある具体的な愛の表現方法を結婚に見いだそうという関心は、幼少期から青年期にかけての宗教的影響に由来するものであるということがあり得る。もし私自身が過去6年以上にわたって大学の学部課程で宗教と性について教えてきた経験がなかったならば、これはまったくの推測的仮定に過ぎなかったであろう。強い宗教的背景をもつ学生は、(非公式的なコメントを通しても、彼ら自身の性および結婚に関する価値観を明確にするのを助けることを目的とした筆記課題においても)、宗教的訓練や献身が少ないか、もしくはまったくない学生に比べて、愛(アガペー)により高い価値を置く傾向にある、ということに私は気付いたのである。この観察は、以下のように記したウィリアム・ドゥアントニオの観察と一致する。
「コネチカット大学における過去3年間にわたる一連の学生の調査において、私は伝統的な宗教性の評価基準、および伝統的な道徳の問題に対する態度と行動の違いをそれらがどの程度予測するかということに対する関心から、徐々に自身の研究を変化させるようになった。われわれはいま、学生の人生における愛の意味、愛と家庭と宗教の間に実際に存在するか存在すべきであると彼らが認識している関係、および彼らと教会が関心を持つべきであると信じている社会生活の領域について調査している。相当なパーセンテージが『いかに愛するか』という問題を人間社会の根本的な問題であると見ている。」(注71)

 「いかに愛するか」を知ることに対する関心は、愛することが可能な社会的状況を必要としていることに関係しているように思われる。統一教会の信者たちは全般に、彼らの宗教共同体がより大きな社会において見出されるもの以上に愛の表現を促進する状況を彼らに提供してくれていると信じているが、統一運動に加入する以前に彼らの価値観を形成するうえで、彼らのもともとの信仰的献身がいかなる役割を果たしたのかをを調査するのは有益であろう。

(注66)ロフランド『社会的環境の分析』、p. 63。
(注67)ウェーバー『宗教社会学』、p. 238。
(注68)グード『愛の理論的重要性』、pp. 38-47。
(注69)リチャードソン、スチュワート、シモンズ、『組織化された奇跡』、pp. 137-166。
(注70)ジュダ―『ハレ・クリシュナとカウンター・カルチャー』、pp.86-87, 124-125。
(注71)ウィリアム・ドゥアントニオ『家庭と宗教:変化する関係性の探究』、p. 102。

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