書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』94


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第94回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 前回から、第六章「四‐二 清平の修練会」に関する櫻井氏の記述に関連する内容として、「霊感商法」と「天地正教」と「清平役事」の関係についての考察を開始した。今回はその続きである。私の主張のポイントは、霊感商法および天地正教と清平役事との間にある種の共通点や連続性を見出すことは可能であるが、それを過度に強調することもまた誤りであり、それらの間には相違点や非連続性も明確に存在するということであった。そこで議論の順番として、初めに両者の相違点や非連続性について述べ、続いて共通点を詳述することを予言した上で、相違点や非連続性の第一のポイントとして「誕生の経緯と公認の有無」について論じた。今回はその他二つの観点から両者の相違点や非連続性について述べることにする。

(2)対象の違い
 「霊感商法」と「天地正教」は、統一教会に直接伝道することが難しい、日本の中高年層に対するアプローチの仕方として考案されたものであった。したがって、これらがターゲットとしていた人々は、既に統一原理を学び、文鮮明師御夫妻をメシヤとして受け入れている人々ではなく、むしろ将来的にはその段階にまで導いていきたいと願っている、新規の対象者であったと言える。

 「霊感商法」のトーカーは、自分が統一教会の信者であることを明かさなかったし、最終的には統一教会に導くことが目的であることを、販売の最初の段階から相手に告げることもなかった。「天地正教」は、少なくとも初期の段階においては「弥勒仏は文鮮明師ご夫妻である」と伝道の初期段階から相手に告げることはしなかったし、新規伝道のアプローチにおいて強調されていたのは、先祖の供養や弥勒信仰といった、日本人にとってはより一般的に受け入れやすい内容であった。

 「霊感商法」や「天地正教」が懸念していたのは、統一原理が日本人にとっては難解で分かりづらいことと、そのキリスト教的な教理解説が日本人には文化的になじめないことであった。したがって、これらが意図していたのは統一教会の食口以外の日本人一般に対するアプローチであり、すでに統一教会の食口になっている者には、「霊感商法」も「天地正教」も必要のないものであった。

 それに対して、清平役事は初めから統一教会の信仰を前提としたものであり、真の御父母様、興進様、大母様に対する信仰がなければ成り立たないものである。統一教会について何も知らない人を清平役事に参加させることは不可能ではないかもしれないが、何らかの予備知識がなければその恩恵の意味を理解できないであろうし、文化的な違和感を持つ可能性も大である。したがって、基本的には清平役事は統一教会の食口、特に祝福家庭を対象としたものであると言える。

 「霊感商法」や「天地正教」と違って、清平役事はすでに統一教会の食口になっている者には必要のないものなのではなくて、統一食口こそ参加しなければならないものなのである。その意味で、これらの間にはその対象において大きな違いがあるのである。

(3)救済に至るプロセスの違い
 「霊感商法」と「天地正教」と清平役事は、現象として見るときに、救済にいたるプロセスがそれぞれ異なっている。

 「霊感商法」は、開運商品を購入することによって先祖の悪因縁から解放されることを説くもので、多額の金銭を捧げるという犠牲を伴うものの、救済に至るプロセスとしては最も受動的である。すなわち、浄財によって先祖や自己の罪が清算されるという考えに基づいており、それ以上に個人が果たすべき責任はない。だからこそ、開運商品を購入したゲストに対して、「真理を学びましょう」と言ってビデオセンターに誘い、統一原理を教育することによって最終的には食口にする必要があったのである。開運商品を販売していた信者たちは、ゲストが壷や多宝塔を購入するために多額の金銭を捧げることを、統一原理で言うところの「象徴献祭」として理解していたようである。したがって、それは復帰の過程における初期段階の条件として位置づけられており、最終的な救いをもたらすものとして理解されていたわけではなかった。

 「天地正教」は、それ自体として独立・完結した一個の宗教団体としての体をなしていたので、その内部に救いに至る完結したプロセスを構築することが必要とされた。そのために、統一教会の信仰生活を仏教的にアレンジした教義や儀式が開発され、その中で信者たちは信仰生活を送るようになった。しかし、統一教会における信仰生活に比べれば、先祖の供養や祭祀、儀式などに重点が置かれたものであり、その信仰生活はより受動的で緩やかなものであった。これは、土着化戦略の一環として、中高年以上の信徒を対象に考案されたものであるだけに、そうなる必然性があったとみることができるであろう。

 救いへのプロセスにおいて最も問題となるのは、「祝福」をどう受けさせるのかという問題であった。文鮮明師御夫妻を「弥勒仏」という名のメシヤとして受け入れさせれば、当然その先には祝福を受けさせるという段階が待っていることになる。幸いにも1992年の3万双以降は、他宗教の者に祝福を与えることのできる時代になっていたので、天地正教に所属する信者たちが文鮮明師御夫妻から祝福を受けること自体は問題がなかったし、事実、天地正教を通して祝福を受ける者たちもいた。しかし、天地正教が事実上消滅した後には、そうする必要がなくなってしまった。

 清平役事は、一つの現象として見るときに、他の2つと比べて、救いに至るプロセスが最も能動的・主体的であり、内面化されている。清平における霊分立の方法は「按手」と呼ばれるもので、熱狂的な賛美と拍手をしながら、体の各部位を手で打つというものである。これを1日3回実行すると共に、祈祷会、朝の訓読会、天勝山の山頂まで往復するなど、肉体的にハードなものであり、修行に近いものである。

 先祖解怨式に臨むためには、精誠と祈祷の蕩減条件が要求され、21日間にわたる朝食断食と50拝の敬拝、蕩減献金などの準備をしなければならない。最も代表的な修練会は2日修練会であるが、国家メシヤや指導者、さらには妊婦や特別な問題を抱える人にはしばしば40日修練会に参加することが勧められ、中には40日修練会に数次にわたって連続して参加する者もいる。40日修練会のスケジュールは宗教的修行そのものであり、生半可な気持ちでは参加することのできない、かなりハードなものである。

 清平役事は、何かを購入すれば救われるとか、何かの儀式をすれば先祖が救われて運勢がよくなるといった表層的なものではなく、徹底的な内的悔い改めと霊的刷新を迫るものであり、自己犠牲と献身的な姿勢を要求するものである。また、目標としている到達点は、悪霊の分立による自己の内的刷新と、先祖の解怨による血統的罪の清算、先祖の祝福による霊界の救済が前面に押し出されており、統一教会における救いの中心的概念がそこにある。その意味において、清平役事における救いのプロセスは、統一教会の信仰生活と完全に連続している。この点が、「霊感商法」および「天地正教」との大きな違いである。

 清平役事は、霊感商法や天地正教と異なり、天の摂理によって出発したものであり、教会の正式な公認を受けた宗教行事である。権威という観点から見て、清平役事はそれ以前の土着化の試みよりもはるかに確固たる基盤と安定性を有している。その意味で、日本土着の宗教的欲求は、清平役事において最良の落ち着きどころを与えられたとみることができる。しかしながら、清平役事は現時点では統一教会の信仰を前提としたものであり、原理に導くための「入り口」としての機能を果たしているわけではない。今後、原理を知らなくても先祖の解放や病気の治癒といった分かりやすい具体的な恵みから清平につながり、その結果として統一原理のみ言葉を学んでいくような、「信仰の入り口」としての機能を清平役事が持つようになったときには、より大きな土着化の力となることであろう。事実、伝道対象者に「祈願書」を書いてもらうことをきっかけにして清平につなげ、統一原理を学習するよりも先に清平の恩恵を体験的に感じてもらってから徐々にみ言葉の教育に入っていくという伝道の方法も、一部では行われているようである。

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