ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳29


第4章 性的役割分担(6)

 これらの女性に対するリーダーシップの機会は統一運動の組織構造の一部ではないが、それらが彼女たちに対して、グループの日常生活に影響を与え、同時に彼女たちの個人的な能力やスキルを表現し発達させることのできるチャンネルを提供していることは疑う余地がない。この研究のためにインタビューを受けた女性たちは、(多くの場合、男性たちのそれよりも)強い自信を示した。その態度は、ファンドレイジング、開拓、その他の活動における成功と関連しているのかもしれない。彼女たちは全員が結婚と母性に対しては非常に高い価値を置いていたが、例えば教育、伝道、執筆、大学院での勉強など、家の外で運動の活動に関わることをも価値視していることを表明した。結婚した女性の大多数は、そのほとんどが幼い子供を抱えているが、家の外でなんらかの運動のプロジェクトのために働いていた。これらの女性たちは、私たちの社会の女性たちの多くと同じように、家庭と仕事を両立させようとして、しばしば役割の葛藤を経験する。メンバーの一人であるノーラ・スパージンは、『ニューズウィーク』誌の女性リポーターからインタビューされたことを話したが、そのリポーターは、ノーラ自身の言葉によれば、「三人の子供の母親である私が、そんなにも忙しくて刺激的な生活を送り、それをするために多くの旅をしていることに感銘を受けたの。」(注42)そのリポーターの観察に対する自分の反応を思い出して、彼女は以下のように書き留めた:
「私は微笑んだ。なぜなら、私は自分の使命が多くの刺激的なことをする機会を私に与えてくれ、毎日の子供たちの世話から私を解放してくれると思っていたからだ。しかし、統一原理が私たちに家庭という単位の価値と、女性であることと親であることの深い内的な意義を教えてくれたので、私の『自由』はまた、多くの涙と心の重荷の源でもあった。」(注43)

 もちろん、この役割の葛藤に伴う「重荷」は、親としての役割と使命における役割は世界を復帰する神の計画の一部であるという信仰によって、いくらか緩和される。さらに、こうした二つの役割を担っている女性たちに対して、運動は保育園やチャイルドケアを提供している。これもまた彼女たちが葛藤に耐えるのを助けている。

 性的役割分担の問題は、女性が理想的には復帰の過程において重要な役割を果たすという統一神学の解釈にも反映されているが、これらの摂理的役割が個々のメンバーの実際のライフスタイルにどのように関わるのかについては、運動内で完全な意見の一致はないように思われる。『原理講論』は、堕落の結果の一つは神による主管の秩序の破壊であると教えている。エバがアダムを誘惑した行為は、彼女が彼を主管したことを象徴し、神が本来意図したことの逆転である。その結果、「堕落した世界においては、男性は主体ではない。」(注44)堕落はエバによって始まったのであるが、女性は男性の性質よりも、より霊的に敏感に反応する性質を持っているとみなされている。文師によれば、
「女性は男性よりも心情的な被造物なのです。したがって、彼女たちが霊的体験においては一歩進んでいることも珍しくはありません。その場合には、男たちは彼女たちに従わなければなりません。」(注45)

 女性にはより霊的な性質があるので、彼女たちは真の父母と特別な関係にあるのである。これは彼らが祝福を受ける前には特にそうである。未婚の女性は、専従のメンバーになった上で、真の父母の「娘」になる。その役割は彼ら、特に神の代身であるお父様に対する絶対的な忠誠を示唆するものと思われる。(注46)さらに、女性は象徴的な形でメシヤ(すなわち文)の花嫁となる。

「男性は女性のようにお父様を近く感じるのが難しいのです。ですから、普通は女性が初めにお父様に対する深い感情を抱き、お父様を慕うまでになるのです。ときには女性はあまりにお父様を慕わしく思って泣きたくなることもあります。」(注47)

 そして最終的に、女性は約婚期間において彼女の相対者に対して母親の役割をするが、これは本質的に「主体」の役割である。

 摂理的役割の背後にある中心思想は、生来男性よりも神に近い女性が、霊的完成を探究する道において主導するということだ。彼女がこの目標に近づくとき、おそらく彼女のメシヤとの特別な関係に助けられ、「母親」としての彼女が自分の相対者/「息子」の養育に対して責任をもつのである。文師が言ったように、「女性が本当の意味で男性から愛されるためには、彼女はまず初めに自分の男性を神から愛される基準にまで引き上げることができなければなりません。そして次に彼が神の位置に立ったとき、彼女は彼の愛を受けることができるのです。」(注48)

(注42)ノーラ・スパージン「統一教会において女性であることについて」『季刊祝福』(第2巻、2号、1978年春)、p.41。
(注43)前掲書、p.41。
(注44)文鮮明師「神の御旨に対する代価」、p.3。
(注45)文鮮明師「祝福と伝道について」、『マスター・スピークス』(MS-2、2965), p. 6。この文の初期の発言をどのように解釈するかは、即座に明確ではない。それは政治的な性質の発言であるとみることもできる。すなわち、彼は1965年の時点でアメリカの運動がおもに師の支援を必要とする女性たちによって導かれていたという事実に対して、宗教的な正当性を与えているということだ。しかし、女性たちがいまでも文および他のメンバーに対する霊的な助言者として機能していることを考慮すれば、よりもっともらしい説明は、女性がもつ霊的な潜在能力に対するこの見方は、この運動の韓国的背景に起因するものであると考えることであろう。「韓国には、女性がムーダンやシャーマンとしての宗教的役割を果たすという、おそらく先史時代にまでさかのぼる長年にわたる伝統がある。」(ヨンスク・キム・ハーベイ「韓国における憑依症と女性シャーマン」、ナンシー・A・ファルクとリタ・M・グロス〈編〉『語られざる言葉:非西洋文化における女性の宗教生活』[サンフランシスコ:ハーパー&ロウ、1980年]に掲載、p.41。
(注46)統一運動のファンドレイジング・チームや伝道チームに通常「チーム・ファザー」ではなく「チーム・マザー」がいるのは、おそらくこのためであろう。
(注47)周藤健「祝福の内的意味」『季刊祝福』(第1巻、第2号、1977年夏)、p.46。この摂理的役割は、韓国の運動にとっては巨大な論争の種であった。1955年に文師とその他数名の指導者が、新しい女性のメンバーと性的関係を持ったとされて逮捕されたが、起訴もされず、有罪判決も受けなかった。この事件の記事に関しては、チェ・シンドク『韓国の統一運動』、スペンサー・J・パーマー『韓国の新宗教』、p.103、ユン・ホイェ『戦後韓国の新しいカルト』(プリンストン神学校図書館:未発行の原稿、1959年2月16日)pp. 37-43、ゾラ・レビット『文鮮明の精神』、p.13、およびJ・イサム・ヤマモト『人形遣い』、p.20-21を参照のこと。これらの記事はすべて、文師に関して申し立てられている性的不道徳に関して、信頼できる歴史的証拠を欠いている。
(注48)文鮮明師『男と女の関係』、p.5.

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