ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳26


第4章 性的役割分担(3)

 もし文師の精神的な教師および(文夫人と併せての)ロールモデルとしての影響力が、統一運動における性的役割分担のすべてを物語るのであれば、男性と女性の適切な行動様式に関するグループ内での多様性などというものを期待することはまったくできないであろう。しかしながら、実際にはそうではなく、アメリカにおける運動のメンバーの間には、性的役割分担に関する理解に極めて広い多様性があることをデータは示しており、その見解は文師の韓国的姿勢に対する文字通りの無批判的な忠誠から、女性に関するいくつかの誤解を明確にするために原理講論は現在のものから改訂されなければならないと発言した女性信徒の見解に至るまで、実にさまざまである。(注19)インタビューを受けた統一教会の女性には「過激なフェミニスト」に分類される者はいなかったが、運動内部の未婚の女性たちと既婚のカップルは、アメリカの文化を背景にして、彼らにとって神学的にも実存的にも意味をなす適切な性的役割分担を決定するために葛藤している、と信じるに足る理由がある。(注20)興味深いことに、文師の立場と調和する傾向にあるメンバーは概して未婚の男性である。

 統一運動における性的役割分担について考えることは、男性が主体であり女性が対象であるとする原理講論の一節を巡って展開する(注21)。標準的な英語においては、「対象(object)」という言葉が人間に当てはめられたとき(例えば「性の対象=sex-object」)には否定的な意味合いがあるため、対象の立場に立った者が主体の立場に立った者と等しい価値を持ち得るということ理解するのに、この研究者は非常に困難を感じたのであるが、すべての情報提供者がそれは本当だと言ったのである。等しい価値を持った主体と対象ということが意味しているのは、統一原理に基づいた神を中心とする文化においては、現代の世俗化された世界においてはしばしば過小評価される受動性、従順、養育、およびそれに類似した態度は、より自己主張的で積極的な態度と同じくらいに重要であるとみなされるということである。したがって、新しい理想的な文化の脈絡の中においては、メンバーたちにとってはその文化の発達段階の核が統一運動なのだが、主体の役割と対象の役割の等しい価値について語ることは意味をなすのである。

 上述のように未婚の男性は、文師によって支持され原理講論において強く示唆されている韓国モデルをより厳密に順守しているように見える。彼らは男性と女性に異なる存在論的な像を描くことによって性的役割分担を描写する。ボーデン氏は、「女性はリードされたいし、男性はリードしたいのだ」という見解を示した。そればかりか、これは彼の側の主観的あるいは道徳的な判断に過ぎないのではなく、「物事の真の姿」であると彼は信じているのである。(注22)男性と女性は生まれながらにして異なっており、したがってある程度固定された特定の役割に本質的に引き付けられるのだという概念は、未婚の男性との会話において頻繁に登場した。
「原理講論は女性の心の構造は(男性とは)異なっていると教えている。例えば、男性は抽象的に思考して新しい考えを展開するのを容易だと感じるのに対して、ほとんどの普通の女性はそれができない。同じ教育レベルの男性と女性を比較すれば、男性が自然に支配するようになるのに対して、女性は強制しないとできない。」(注23)
「私は、男性が女性以上に果たすべき一定の役割があり、女性が男性以上に果たすべき一定の役割があると思う。なぜって、ほら、私たちは家庭をとても強調するので、もちろん女性は子供を育てるうえでより多くの役割がある。そして外で仕事をして、世界と関わるのがより男性的な性質であると思う。」(注24)
「おそらくリーダーシップを発揮する位置は、その性質ゆえに男性がより能力を発揮すると私は考える傾向にある・・・家庭を営むという観点からは、男性は赤ん坊に乳を飲ませることはできないし、子供を育てることはしない。女性の生活の中心部分は家庭生活であるべきだ。」(注25)

 事実上これらすべての男性は、文師がアメリカ人の男性をリーダーの位置に復帰させる努力を始めた年である1971年以降に統一運動に入会している。1970年代の多くのアメリカ人男性と同様に、これらの若い男性たちが我々の社会の中で数を増大させつつあった解放された女性たちと関わろうとする中で、男性としてのアイデンティティー・クライシスを経験したと考えるのはもっともらしい。これが本当であることは、彼らの多くが統一運動に回心する前に経験した女性との親密な関係は、不満足なものであったと語った事実に暗示されている。運動は彼らに明確に定義された男性の役割を提供したのかもしれない。そしてそれは、世俗社会において機能している、より曖昧でより高度に分化した役割よりも、彼らにとってより心地よい役割だったのかも知れない。さらに、統一運動が家庭の神聖性を強調していることを考えれば、全般として非常に保守的・伝統的な価値観を持っているメンバーを魅了すると信じるに足る理由がある。それに加え、統一運動は組織において男性がリーダーシップを発揮することを強調しており、これにより彼らがなぜ自身の社会的位置を具体化するような方法でその神学を解釈する傾向にあるのかが明らかになるのである。

 未婚の女性メンバーは、運動における性的役割分担の理解において、男性の同僚たちと極めて対照的であった。彼女たちは原理講論の中の男性が主体で女性が対象であるという一節を知っていたが、彼女たちは独身の男性たちよりも、もっとダイナミックで実存主義的な方法で人間の役割と関係性を解釈したのである。彼らは自分たちにとってカギを握る原理講論の一節を特に強調したのだが、それは「男性には女性性相が、女性には男性性相が各々潜在しているのである」(注26)という部分であった。

(注19)インタビュー:マリー女史
(注20)これはある社会運動が一つの文化から他の文化に移植されたときに、その中に生じる緊張の典型例である。私がアメリカのメンバーたちと接触する中で、彼らの多くが文師の性的役割分担に関する見解を(例えば清めの儀式に塩を使うことや、まぶたを攻撃する眠りの悪霊を追い出すといったような、いくつかの韓国の風習と共に)、本質的に文化的なものであり、したがって、彼らの信仰の本質的な部分ではないみなしている、という印象を強く受けた。あるメンバーはこれらの韓国的要素に言及するとき「キムチ」という言葉を用いた。キムチとは、文字通りの意味はスパイスを施した白菜のことだが、韓国の食事においては必需品である。
(注21)「神が男性であるアダムの肋骨を取って、その対象としての女性であるエバを創造された・・・(創二・22)。我々はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである。」『原理講論』p.24。p.33、pp.48-49、および特にp.91も参照のこと。
(注22)インタビュー:ボーデン氏
(注23)インタビュー:ボルトン氏
(注24)インタビュー:アダムズ氏
(注25)インタビュー:リギンズ氏
(注26)『原理講論』p.21

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